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1999/7/12■月曜交流会から

自分に奉仕し自分のために生きることの意味

@奉仕するということと奉仕したという達成感を感じることの違い

私たちは今の話を聞いて少し、話をしていきます。皆さん方が私たちと交流をするということは、私たちから見てどういう意味があるのか。私たちからみた場合に、私たち自身はこういう場を通して皆さん方の意識の変化を成長の度合いがよく分かり、一人ひとりが私たちの仕組みによってどう変化していくか、私たちのやろうとしていることが皆さん方の体を使ってどこまで行えるか、それを調べようとして、いつもここにやってきます。

皆さん方から見たときには、自分の人生を良くするために、良いアドバイスをもらったり、これからどうなるかを聞いて先に用意しておく、困ることが起こらないように準備しておく、という考えで情報を引き出そうとしているようです。そして私たち自身は皆さん方が質問をしたときに限って、それにアドバイスを与えてきました。でも、生き方が少しずつ分かってくると、質問そのものが意味をなくしてしまったり、何か聞いてから動くというやり方が適当ではないことに気がついてきます。

それでは質問がなくなったときに、皆さん方はここに来る必要がなくなるのか。おそらく情報だけを当てにしていた人はそうかもしれません。新しいものが教えられないときにはここに来ても意味がない。そう思って来なくなるのかもしれません。でも皆さん方の一人ひとりの人生は皆さん方がつくるものであり、私たちが決めることはできません。にもかかわらず、ほとんどの人が私たちに質問をしに来ます。どうしてこうなるんですか。私はこれからどうなりますか。私たちにも分かりません。

ただその人自身が持っているエネルギーや計画、魂の考えによってある程度、想像できるものはあります。でも実際に一つひとつの現実を造るのは、皆さん方の意識となります。それは必ずしも決められたエネルギーや魂の持っている思い通りに進むのではありません。むしろ皆さん方はその時その時の雰囲気でかなり変わってきます。たまたまそこに居合わせた人、たまたまテレビで見たあと、電話や本で知ったあと、そういうことによって行動の基準がかなり変わってきます。

そのために、実際にどう行動してどうなるのかは私たちにも分からないものがたくさんあります。でも多くの場合、皆さん方が魂と違うことを選択して、魂の思いとは違う方向に進んだとしても、何らかの意味があると思って、その意味を聞こうとしてやってきます。確かに、その場合でも、そういう流れのエネルギーがあるために、そのエネルギーを説明します。でもそれは必ずしも魂や宇宙の思いではないことが何度もあります。

私たちは必ずしもそれをいちいち魂とは違うことを選択したとか、宇宙とは違うことを選択したとか言うことはありません。また、言うこと自体に意味はありません。なぜならば、一人ひとりが選択したことであり、一人ひとりの人生だからです。魂や神がいかに思おうとも、皆さん方の人生は皆さん方がつくるものです。神や魂と違うことをしても、何の問題もなく、十分に許されることであり、また間違っているわけではありません。

したがってどうしてそうなったのかを神や魂に聞いても、本来、意味がないのです。あなたが採用したからです。皆さんが選択したからです。それが唯一の答なのです。でも、その意味を教えてほしい。何の学びがあるかを教えてほしい。皆さんが聞きに来ます。確かにそういう風に質問がきたときに、私たちなりに説明をいたします。こういうエネルギーがあり、こういう学びがあるから、こういうことになっている。そう説明いたします。でも、ほとんどは実際には皆さん方がそうしたいから選択した。それが本当の理由です。

エネルギー的な説明をするときに、皆さん方があまり悲しくならない説明、ショックを受けない説明、そして何らかの勉強のために参考になる話、これからの同じような状況のために、理解しておいた方がよい説明、そういったものを総合的に考えて、現象の意味を説明いたします。


皆さん方の人生が何から何まで皆、決まっていると思っている人がいるようです。はっきりと言いますが、皆さん方の人生はそんなに何もかも決まっているわけではないのです。確かに言葉として、カルマとか運命とかいう言葉があります。古代の人間はそのエネルギーに流されて、そのまま進むという経験を選択した者がおりました。自分の意思ではなく、自らがつくったエネルギーでただ一生を過ごす。確かにそういうときはありました。しかし、今、特にこういう学びをしている人においては、すべてが決められた通りに歩むなんていう人はほとんどおりません。意味がないからです。

むしろ、自分でどう選択していくか。自分で自分の人生をどうつくっていくのか。そこに意味があります。これからどうなるのか。そう聞かれても、私たちにも分からないのです。皆さんがどうしたいのか。ほとんどの人は、普通にやっていけば何とかなる、何とか生きていける、神を信じているから神が助けてくれる、そう思っているようです。確かに私たちは皆さん方を大切に思い、満足した生き方をして、愛と喜びに溢れた人生を歩んでもらいたいと思っております。でも、だからといって、そういう人生を与えることはできないのです。皆さん方が自分でつくらねばならないのです。

どうやって自分の人生を愛に満ち溢れた人生に変えていけるか。一人ひとり、自分について、人生について、思うところがたくさんあります。ああいう生き方はしたくない。もっとこういう風に生きたい。こんなことをやってみたい。そして進むべき方向性がつくられていき、自分なりにその方向へ向かっていきます。でも途中でいろんな人々と出会い、喧嘩したり、対立が起こったりして踏み止まり、やる気をなくしたり、失望したりして、自分の方向性について疑問が湧いてきたりします。

皆さん方が自分で信念を持って自分の道を歩いている限りは、それはとても美しい光を見せてくれます。自分の人生を自分でつくっている。そういう光が見えるのです。しかし何か、決まったとおりに生きる、決められたことをする、やるべきことをやる、そう思っている人は、いかにもそういう考えが分かるような光が発せられております。自分でつくるというよりは、決められた道を歩く。そういう人はどこに向かうのでしょう。本来、決められているものは何もないのに、決められていると思ってただひたすら歩いている。

本人はそれが自分の人生だと思って、一生懸命にやっています。そう信じて、そう生きている限りにおいては、確かに生命に満ち溢れたエネルギーは出ております。やる気をなくした人や失恋した人に比べると、はるかに美しい光は出ております。でも自分の人生を自分でつくるという波動がまったく出ていないのです。そういう人がそのまま学びを続けていったとき、どこに向かっていくのか。自分で自分の人生をつくるということに意識が向いていない人は、どこまで進んでいっても、何かに縋(すが)ろうとします。

自分よりも良く知っている人、すべてを見抜いている人、そういう人が前提になっており、そういう人の言うなりに動こうとします。そして自分よりも知っている人に出会うと、その人の言うとおりにすることによって自分は確実に良い方向に進んでいるという安心を得ることができます。自分の人生を自分でつくる。この真の意味がいつまで経っても、その人には理解されないのです。

日本人はいつも良く知っている人の言うことを聞いて、その通りにすることが良いことであり、常識であり、和を保つという風に感じておりました。良く知っている人の言うことを皆で守る。それによって和を保ってきたのです。したがってそういう行為を皆が正しいことと思い、良いことであると思っておりました。しかし今、自分で自分の人生をつくらねばならないという時期にきたときに、そういう考えは自分を制限してしまう状態にしか導きません。

今、多くの日本人がそのために混乱し、迷っております。今まで信じてきたやり方が通用しない。でもどうして良いのか、分からない、自分の考えというのが何かすらも分からない。皆に合わせることを第一にやってきた人は、皆に合わせることが自分の考えだと思っているのです。したがって皆がいて、初めて自分の考え、自分のやりたいことが見えたのです。皆が違うことをやり始めたとき、自分のやりたいことが自分でも分からなくなってしまう。皆に合わせること、でも皆が何をやっているのか分からない。結果的に、自分も何をして良いのか、分からない。

自分は本当に自分の人生をつくっているんだろうか。自分の心を良く見つめてみて、世の中の常識に合わせていたもの、皆と合わせなければならないもの、そういったものがどれだけ残っているか。自分のやりたいこと、自分が楽しいこと、どれだけつくられてきたか。自分の心の中から一生懸命、探し出してみてください。

自分のやりたいことは、ほかの皆から否定されても、喜んでできるかどうか。魂が何を考えているか。神は何を考えているか。それをいちいち気にしている人、そういう考えではなく、自分は何をしたいのか。自分という人間は何を望んでいるのか。まずはそこに戻るようにしておいてください。自分は何をしたいのか。それに合わせて魂や神がエネルギーを流してくるのです。自分の肉体、自分のエネルギーをどう使うか。

Yさんは、これからやってみたいというものがありますか。

(Yさん) もっと英語を勉強して、たくさんの人とお話をしたい。

宇宙の新たなる神々よ・・・(エネルギーワークが行われる)。あなたのその思いはあなたの仲間を通じて現実に反映されていくでしょう。いろんな勉強の仕方があります。今の勉強に限らず、工夫の仕方で、いろんな機会が与えられたり、人々がやってくる可能性があるでしょう。一つひとつを喜びを持って体験していくと、繋がりが強くなり、いろんな人々との出会いも増えてくるでしょう。

ほかの国では皆、楽しむということを大事にしています。下手でも間違っても良いから、とにかく楽しむためにコミュニケーションをとろうとします。あなたもそのやり方をまず自分のものにして、コミュニケーションすること自体の楽しさを味わっていってください。


Sさんは。

(Sさん) 世界中のいろいろな人と会ったり、地球の自然のエネルギーを感じたい。

あなたの現実を造るエネルギーに私が関与することが許されました。あなたの現実において自然や森、海といったエネルギーがもっともっと密接な関係がつくられるように、これからの現実をつくっていきましょう。あなたの思いが現実に現れてきやすいように、工夫をしていきます。

Iさんは。

(Iさん) パソコンに興味を持っているので、ゲームか何かつくれればと。

あなたは自分の人生をどう認識していますか。

(Iさん) 私の人生は人に奉仕することだと認識していました。

私たちなりに、説明をしておきます。私たちは一人ひとりの成長によって言葉を変えていきます。あなたに与える言葉はあなただけのものであり、ほかの人にはまったく通用しません。あなたの場合にはあなたの世界で大きなエネルギーが造られており、それを前提にして言葉が与えられます。あなたはその世界の中で自分を楽しみ、自分を磨こうとしております。まず、あなたに理解していただきたいのは、それはあなただけの世界であるということ。あなたが奉仕をしようとしている対象にはもう当てはまらないのです。

あなたはまず自分自身に奉仕する必要があるのです。あなたは自分自身に対して何も奉仕していないのです。あなたが今のその世界から抜け出るためには、あなたが自分で自分に奉仕せねばならないのです。それが行なわれない限り、あなたのその世界はあなただけのもので、何も変わりません。あなたがやりたいと思っているもの、やらねばならないと思っているもの、それはすべて自分に向けてのものです。

教えてあげたい。広めたい。自分自身に対して行ってください。奉仕したい。自分に対して行ってください。もっと広めてあげたい。知らせてあげたい。自分に対して行ってください。あなたが自分自身に奉仕し、自分に対してサービスできるようになると、改めて自分が見えるようになり、そしてほかの人が見えるようになっていきます。自分に対して意識を向けない限り、ほかの人には意識が向きません。

あなたが思っている地球やほかの人は、実際にはあなたの思っているものとはまったく違う存在です。まずは自分自身をしっかりと見ること。自分に奉仕するということ。その意味を理解できるように努めてください。

疑問点があれば、おっしゃってください。

(Iさん) 自分自身に奉仕するということは、たとえば自分の成長のために奉仕するということでしょうか。

自分のために奉仕するということです。Yさんは今のを聞いて、どう感じましたか。

(Yさん) 自分のために奉仕すると、自分の成長のためになるのかなぁ、と思いました。

そうですね、成長のためにとか条件を付けると、その結果を気にしてしまいます。その段階で思い通りにいかないときに虚しさを感じたり、まだダメだとかいう判断をします。それは真の奉仕ではなくなってしまうのです。奉仕は奉仕していること自体に喜びがあり、それ自体に意味があるのです。条件を付けたり、目的をつくったりすると、奉仕から遠ざかってしまうのです。したがって成長のためにとかいう目標をつくって、それに至るためにとかしてしまうと、真の奉仕とは違うエネルギーになってしまいます。どう感じますか。Sさんはどう感じましたか。

(Sさん) Iさんはもっと自然に、心からの行動ができると思います。奉仕とか考えなくてもよいと思います。

Iさんは今の話を聞いて、何か感じましたか。

(Iさん) 昔は、無私の心で奉仕したことがありました。そういう気持ちでやれればと思います。

Yさんは、今の言葉を素直な言葉として感じられましたか。

(Yさん) いえ(笑)。奉仕する、ということから離れられないようですが、まず自分に奉仕すること、もっと自分自身の心や感情に耳を傾けて、自分を大事にする価値があるといいなぁと思いました。

先ほど、Iさんは、以前に自分は本当に無私になって奉仕をしたことがあったと言いました。それは自分に対して奉仕をしていたでしょうか。

(Iさん) いえ、違います。私のためには何もなっていません。そういう気持ちはありませんでした。

Iさんは奉仕と思っているかもしれませんが、実際には奉仕をしたという喜び、奉仕をしたという達成感がただ残っているだけです。奉仕をしたのではなく、奉仕をしたという考えが残っているだけです。この違いが分かりますか。

(Iさん) まぁ、違うと思います。

でも、今はたまたまIさんをテーマにして話をしていますが、今、話し合っていることはとても大切なことです。これは何もIさんのことではなく、今の多くの、いわゆる精神世界で学ぼうとしている人、宗教に入っている人、ボランティアで活動しようとしている人、あるいは聖職者や高い地位にいる人、政治家、といった人々に皆、共通するテーマでもあります。

自分は人のためにやっている。社会のためにやっている。決して、自分の私利私欲でやっているのではない。自分のためにやっているのではない。皆のためにやっているんだ。そう思って、本当にそれを信じてやっている人がたくさんおります。政治家やお医者さん、学校の先生、皆、そうです。自分は人のために身を尽くし、寝る時間も短くして、一生懸命に頑張っている。どうして自分が責められるんだ。自分のどこが悪いんだ。皆、そうやっています。もっと悪いのは、関係ないところで人をレイプしたり、金を奪ったり、命を奪う奴の方がもっと悪い。どうして自分が責められるんだ。そういう人がたくさんおります。

Sさんはそういう現実をどう感じていますか。

(Sさん) やはり無心で奉仕している対象が実際には自分ではないものであり、自分ではないものにエネルギーを費やして、その見返りを期待しているんじゃないかと思います。

皆さんは小さい頃から、立派な人になるように、大きくなったら立派な人になるようにと教えられてきました。立派な人とは、世の中のために尽くして、自分を犠牲にしてでも人のために行うこと、これが立派なことだと解釈している人がたくさんおります。結果的に人に対して一生懸命やっていれば、立派なことをやっている。立派なことをしているという証を得ようとして、一生懸命、自分を犠牲にして、人のために働く。こういうパターンがあるのです。

一生懸命、人のためにやっていれば、立派なことをしているという評価が得られる。立派な人だという風に見てもらえる。立派な人になるために、ある人は医者になり、ある人は先生になり、ある人は政治家になり、ある人は聖職者になり、ある人は知識をたくさん吸収し、ある人は人の上に立とうとする。立派な人になろうとしているのです。立派な人は、自分のことを考えず、人のことを先に考える。私欲をなくして、まず人のために、社会のために考える。これが立派な人。

立派な人になろうとして、私利私欲を減らしたとして、それは本当に無欲でしょうか。立派な人になろうという気持ちがある限り、無欲にはなれないのです。立派な人になりたい。社会に奉仕したい。皆のために役に立って、自分はそういう価値のある人間だと認めてもらう。皆、心の奥底ではそうやって自分が立派な人間であるという証を得ようとしているのです。

ただ、それは必ずしも、明確にあの人は良い人だとか、あの人は立派な人だとか言われるのを待っているとは限りません。自分で自分を認める場合もあります。自分はこれだけできるようになった。自分はこれだけ、人々のために動くことができるようになった。自分で自分に評価をする場合もあります。さて、だからといって、そういう行ないのすべてが間違っているとか、悪いとかいうことはできません。

今の地球人の人々が何らかの行動を為す場合には、やはり方向性や目標がある程度、必要になります。まだ自分自身の生き方が分からず、社会での生き方が分からないときにおいて、人々のために、社会のために生きるということは、必ずしも否定されるべきものではありません。したがってすべての人間に対して非難したり、文句を言うことはできません。一人ひとりの意識レベルで一人ひとりを調べていく必要があるのです。

したがって実際には一人ひとり個別で見た場合には、立派な人間になろうとして人々のために何かをやろうとしたり、社会のために何かしようとしても、必ずしもそれを責めることができないケースがたくさんあります。皆さん方は一人ひとり、自分のことを考え、自分は次の段階としてどういう風にもっていくか、自分は本当の自分の幸せのために動いているかどうか。社会のためという制限をつけて、自分を堅苦しくしていないかどうか。自分は自分のために自由に行動しているかどうか。自分と社会の接点を奉仕という点だけに限定していないかどうか。

社会は奉仕ではなく、喜びを求めております。愛を求めております。自分はそこで何を為すことができるのか。自分が表現できる愛と喜びには何があるのか。一人ひとり、自分なりの角度で、自分について自分の生き方を考えるようにしてみてください。私たちはここまでにいたしますが、話し合ったあとで、もし質問があれば、またお話をしようと思います。それでは休憩をとります。ありがとうございました。


(c)1999 CentralSun
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