この世界のすべての仕組みは神が創り、いろんな世界の仕組みがお互いに関連して維持されております。それぞれの世界を担当し、その世界の生きとし生けるものを見ているものが神となります。冥界というのは、人々の心に光がないもの、人々の心に光が消えうせたものたちを集めている世界です。
心に光がない、心に光がないというのはどういう世界でしょう。光が何を意味するか、光は人々を照らす力を言います。人々を明るく照らす、人々を照らすものが光であるならば、光のない心は人々を照らそうという気持ちがない人々です。人々を明るくさせる、楽しくさせる、優しくさせる、人々を成長させる、人々を見守ってあげる、こういう気持ちのないのが光のない心になります。
冥界という世界は、人間の心が集まった世界であるにも関らず、人々を照らそう、明るくさせよう、導いていこうという気持ちがまったくない世界であり、そこは自分のことしか考えていない、自分しか見えていない、そういう世界です。自分から光が出てこない、それ故に人の顔でさえも見分けが付いていないのです。
ほんの少しだけ光が出ていて、ほんの少しだけ何か友達として接したい、誰かと一緒になりたい、そういう気持ちがほんの少しだけあります。そのほんの少しの光で相手の顔が見えたり、自分のすぐ近くの世界だけが見えております。しかしそこでやっと見えた相手の顔は一人ひとりが自分のことしか考えていない顔になっています。
見るからにあさましく、欲深く、他人を操った状態にしようとするものばかりが見えてきます。そういう世界にいるものたちがお互いに罵り合い、お互いに傷付け合い、お互いに無視し合っている。なぜ彼らがその冥界に集められたのか。光がない世界、しかしそこにも進化の波があり、進化の法則があります。
彼らも進化する流れを通っているのです。いずれは自ら光を放ち、醜い顔が穏やかな顔になり、やがては美しい顔に変わっていく、その流れがつくられております。どのようにしてあさましき顔が穏やかな顔に変化していくのか。一人ひとりは自分のことしか考えず、他人を人と思わず、醜い激しい言葉しか発しておりません。しかしその世界に時々ほんの少しだけ自分よりも光のあるものがやってきます。
ほんの少しだけ自分よりも美しく、輝いて、優しい人々が来ます。自分よりも光のあるものが来ると、それまでのあさましき心がなぜか急に穏やかになってきたり、自分の心が優しくなってきたり、あるいは他の人に親切にしようという思いが湧いてきます。自分よりもほんの少しだけ光の強いものがくるだけで自分もその光の影響を受け、穏やかになっていくのです。
そしてそのほんの少しだけ自分よりも光あるものがまたどこかへ行ってしまうと、また自分は元のあさましき姿に戻ります。また忘れた頃にほんの少しだけ輝いている存在が来て、またその光のおかげで自分のあさましき姿を理解し、また親切にしよう、穏やかになろうという気持ちが湧いてきます。しかしまたその光がいなくなると、また元に戻ってしまう。
これを何度も繰り返すうちに段々自分よりも少し光のあるものたちが来た時の印象が強くなり、自分もそうなろう、自分も少し穏やかな心になろうという気持ちが湧いてきます。そしてほんの少しだけ自分よりも輝いていた存在と同じような意識レベルに高まっていき、自分の光が少し遠くまで届くようになり、それまでよりもより多くの人の顔が見えるようになったり、時々穏やかな顔の人が見えるようになってきます。
これが自分の意識が進化した、あるいは波動が上昇したという現象になります。そしてまたその世界が一変して別の世界に移動し、またその世界でその世界に見合った生き方をしております。そこにまた自分よりもほんの少し輝いている存在が来て、また自分がそこに向って光を多くしていこうと思う時がくるまで何度も何度も繰り返されていきます。
冥界ではこのように、そこに住んでいるものたちにほんのわずかなる光の強いものが来て、その世界の人々の意識を高めようとしております。皆さん方の肉体を持った世界において、基本的に見えるものは物質として全員が同じようなものを見ています。心の世界では自分の出している光の範囲でしか世界は見ることはできません。
しかしこの物質の世界は全員が同じものを見ているのです。逆に言うと心貧しきものも心清らかなるものも、全員が同じものが見えるのはこの世界だけなのです。この世界では全員が同じものを見ている。逆に言うとこの世界でしか同じものを見ることができない。この世界だけの学びなのです。
そこにおいて、心荒々しきものはせっかくすべてを見えるこの世界にありながら、自分の身近なものだけに意識を向け、自分の心を理解してくれる人としか話しをしない、自分のことを分かってくれる人としか話をしない、自分を可愛がってくれる人としか話をしない、このようにしてせっかくすべてを見えるにも関らず、自分に都合の良いところしか見ようとしておりません。
この自分に都合の良いところしか見ようとしない心、これがそのまま皆さんの世界をつくっていきます。自分に都合の良いところしか見ようとしない、結局自分は他人の光で生きているだけで自分から光を出そうとしていない、そういうものたちが冥界に集められてきます。
今この物質肉体の世界において、できるだけ多くの人に自分の光を届けよう、できるだけ多くの人に自分の愛を届けよう、そういう意識を持っているものは、この物質世界にいながら極めて多くの人に自分の光を届けていきます。そうすればその人は冥界ではなく光溢れる世界に招かれることになります。
普段自分の意識が、自分の心がどの程度他の人を光で照らそうとしているか、どの程度他の人に明るくさせようとしているか、普段の意識の持ち方がそのままその後の世界をつくり上げていきます。皆さん方が自分でつくった自分の世界、どこに進もうともそれは自分たちでつくった世界であり、光溢れるも光足りなくも、すべて自分のつくった世界になります。
光がない世界に連れていかれ、自分から光をほとんど出していない人魂が、その心が光を欲しい、光を欲しいといくら叫けんでも自分が他の人を照らそうとする気持ちがない限り、明るい世界にはなりません。他の人の所為にして光が届けられてこない、あいつは光がない、いくらそう叫んでも自分が光を出していない限りは周りに光は見えません。
神も仏もないもんだ、そこにいる住民たちは皆そう言っています。これだけ頼んでいるのにまったく光が来ない、何が神だ、何が天使だ、そういうさげすんだ気持ちがある限り光はやってきません。神は皆さん方の願い事を聞くために存在しているわけではなく、皆さん方が神として完成するまで皆さん方が辿り着くところにただ待っているのです。
皆さん方が到着する目標として存在しており、皆様方が進むべき方向性として存在しているだけです。皆さん方に特別な力を与えたり、一瞬にして何かが変わるような奇跡を起こすために神はいません。しかし神は平和を愛しています。神は愛のある社会を求めています。神は健康を求めています。にも関らず、心に優しさがない人は不健康になり、心に規律がない人は堕落の社会を歩み、心にけじめがない人は無法地帯の中に住まされるでしょう。
その仕組みそのものが神の心であり、神の方向性であるということをどれだけ理解していただけるか。身の周りに起こる現象を見て神を知り、神の心を知り、自分の心を律していく、一人ひとりがそれを行なうことなのです。なぜ自分だけがこんな苦労をするのか、なぜ私だけがこういう目に合うのか、あの人はうまくいっているのに、なぜ私はうまくいかないのか、多くの人がそう叫んでいます。
しかし神は特定の人をえこひいきしたり、特定の人にだけ良い人生を与えるということは一切ありません。どの人間もその人の持てる力に応じて調度良い具合に人生がつくられております。でも中にはとても耐えられず、どうやっても解決できず、どのような手段を通ってもうまくいかないという状況もあるでしょう。
皆さんに理解していただきたいのは、皆さんの体験している現実というもの、一つひとつの選択、その選択肢にすべてに正解とかすべてに良い道とかがある訳ではありません。どの道をとれば正解でどの道をとれば失敗ということはないのです。言い方を変えればどの道をとろとも同じなのです。どの道を通っても心の中に神があれば正解であり、どの道をとろうとも心の中に光がなければ冥界に通じます。
現実の道の選択肢とは関係ないのです。しかし多くの人は現実の選択肢を聞いてきます。どうしたら良いのでしょう。どっちに行ったら良いのでしょう。どうすれば解決できるのでしょう。どうすれば問題がなくなるのでしょう。実際のところどの道をとろうとも何をしようとも一切関係ありません。自分が他の人を照らそうとする、他の人を明るくさせようとする、自分の心を律して生きていく、そういう気持ちがあればどの選択肢をとろうともその人は正しい道を歩んでいます。
逆にどの道を進めば良い道、どの道を進めば神に褒められる、どの道を選択すればハイヤーセルフの道、そう考えて選択をとっているものはすべて別の道になります。三次元的な選択肢から意識を切り離すことが必要です。目に見える三次元的な現象は皆さんの心の状況に応じて適度に現れてきたものであり、それ自体が単に自分を楽しませてくれる一つの要素にしか過ぎません。
どのような現実がやってこようとも自分を成長させることができ、また堕落させることもできます。それは目に見える現実の選択肢とはまったく関係ないのです。自分よりも優れた霊能者、スピリチュアルな人、直観や霊感の優れた人、そういう人がアドバイスをすることがたくさんあります。どこどこへ行きなさい、何々を身に付けなさい、何々をしなさい、しかし実際のところ、それらを行なったところでその人の光が増えるということはほとんどありません。
霊能者や直観の優れた人の言うなりになったところで自分の光が増えるということはほとんどないのです。ただいろんな歴史的な流れにおいて、家系において古くから何らかの霊障がある、霊的な災いがある、人の念が影響している、そういう霊的な現象によって何か常に災いが起こる場合、それは確かにそれを見抜いた霊能者のアドバイスにより正しい方法によってエネルギーを浄化することができます。
そういう時は本当に自分に関係しているものが何らかのメッセージを渡そうとして伝えてくる場合があります。したがって、自分はそういう情報が与えられた時に本当に自分たちのエネルギーを浄化するための情報なのか、それともいわゆる霊能者が単に自分本位なことを言ってその人の霊的な成長を止めようとしているのか、どちらかであるかを見抜く判断力が必要になります。
その判断力は中々頭で考えて分かるものではありません。それこそその時に一番力になってくれるのが皆さん方のいわゆるハイヤーセルフ、霊的な存在たちになります。自分が真実を知ろうとして意識を集中させた時にその仲間たちは必ずインスピレーションで本当のことを伝えてきます。
しかしあくまでもインスピレーションの情報なので明確に理解することはできません。単なる雰囲気、感覚でしか得られないでしょう。それでも自分が求めている時は確実に何らかの答えが流れてきています。自分がそれを信ずる気持ちが必要であり、そして受け取った情報を信じる、それが何度も何度も繰り返されていくと、ハイヤーセルフや霊的な存在たちからの直観を受けやすくなり、いずれはその直観や霊感を瞬時にして感ずることができるようになっていきます。
このように霊的な存在たちの直観や霊感を受け取ることができるようになった状態がいわゆるハイヤーセルフと繋がったという状態と言えるでしょう。あくまでも雰囲気、霊感というレベルなので明確に具体的に指示が来ることはありません。もし実際の言葉として具体的なものとしてやってきたのであれば、それはハイヤーセルフではなく、極めて波動の低い存在と言えるでしょう。自分がどこまで受け取れるようになったかどうか、あくまでも謙虚な気持ちで自分の周りのものたちを理解し、見抜くようにしていってください。
毎日の出来事も変化が激しくなっていき、数ヶ月前、数年前の出来事が遠い遠い昔のように感じられてきます。それだけの変化が押し寄せてきている毎日において、自分が現実の中に埋没してしまうと自分の意識も混乱した状態の中に入り、急速な現実の変化の中に自分が振り回されてしまうことになります。
目に見える現象世界が急速に変化していっても、それは自分の周りの世界であり、自分自身は一定で、乱されることなく、冷静を保ちながら安定した意識を保持している、こういう意識状態を保っている必要があります。周りの現象に振り回されない、目に見える現象に執着や概念、思い込みを入れないことが必要であり、どのような現実がやってこようとも価値判断を与えずただ流れとしてみていく、現実が良い悪いとかは関係なしに、ただ流れとして見ていく、これが訓練されております。
やってくる現実が自分にとっては不幸、あの人は良い現実、なぜ私はこれを体験するのか、こういう価値観はすべて現実に自分の意識を入れてしまっており、もう現実に執着しているのです。現実そのものから自分を切り離していく、現実から思いを手放していく、どのような現実になろうとも自分の心が乱れたり、心が破壊されることは一切ありません。
たとえ見かけはすさまじく、激しい現実であったとしてもそれによって自分の心が破壊されることはないのです。自分の心は自分がしっかりと管理しておけば、どのような事態にあっても心は安泰のまま冷静に沈着に保つことができます。これから益々変化するこの現実の中において、自分の心を正しく維持し、自分の心の中にすべての自分が存在する、その状況をつくることにより現実をうまく流すことができます。
現実を良くしよう、良い現実を体験しよう、そう思うと自分の心が現実の中に入り込んでいき、心が現実に振り回され一つひとつの現象に心が揺れ動くことになってしまいます。そういう心になるといつまで経っても心に平安が訪れず、周囲の所為にしたり他人の所為にしたりする現実が続いていきます。
どのような事態にあっても心を現実から切り離す、現実から心を切り離した時、目の前にいる人間たちをどう扱っていくか、基本的にどの人も心があり、心には清らかな心があります。清らかな心と現実に振り回されている混乱した心があります。周りにいる人々の清らかな心、現実に混乱されずにその人だけの安定した素晴らしい心が必ずあります。それが何かを見つけていくことです。
目の前の人の安定した心を見るためには自分自身が安定した心になっていなくてはいけません、。自分の心が安定すると目の前の人の心も安定する部分が必ず出てきます。もし目の前の人に安定した部分が見えなければ、まだ自分の心は安定していないということです。自分の心が冷静に安定した状態になれば、必ず周りの人に安定した心が見えてきます。
そこを見つめ、その安定した心で安定した場をつくっていく、そうすると周りがいかに混乱し、それぞれの一言で揺れ動く現実であったとしても、安定した心同士で出来上がる世界は安定した世界がつくられ、現実に振り回されない喜びのある世界が感じられてきます。周囲の動きに左右されず、どのような事態が起こっても平和な世界が見えてきます。
その世界をいかにつくり上げていくか、そのためにはまず自分が安定した心をつくり、目の前の人の安定した心を見抜いていく、それらが集まっていきいつの間にか安定した場が出来上がってくる、常にこういうやり方を身に付けておくと、どの場に行ってもどこに行っても穏やかで安定した場をつくることができます。
常にこういう心を身に付けておけば皆さん方は常に光に招かれ、光を呼び、光を求めるものたちが自然と集まってきます。またその中で安定した心だけを見抜き、安定した場をつくるようにすると益々大きな光が集まってきます。皆さん方が今後この混乱した社会を平和な社会に変えるためにはこのような方法で、安定した平和な社会をつくり上げていくようにしていってください。それではアドバイスをしてみます。
Yasukoさんの心を見た時、あなたの心の中には本当に幸せを願う心と、自分が幸せの中に浸りたいという心があります。本当に幸せを願う心が他人のために何かをする、幸せな世界の中に住むという波動を作り上げていきます。と同時に自分の幸せを願う心があり、これは自分の世界の中でつくられていき、自分と他人の境界をつくっていきます。確かに自分が幸せになり、自分が豊かになるというのは人間である限りすべてが持っているものです。この自分の幸せを願う心を他の人々の幸せに変えていくには、自分の世界をどの時点で崩壊させていくか、自分という場、自分という世界をつくり、そこで安定していようと思う限り、必ず限定された自分の世界がつくられていきます。そしてそれは他人には結び付かない世界になっていきます。自分という場、自分という世界、それを手放していき、本来心の世界には自分も他人もないということ、自分の心の中には自分はいないということ、ここに辿り着いた時、自分の心はすべての心に通ずるものということが理解されてきます。自分の心は自分のものではなく、他の人の心の現れであり、それを勝手に自分と思い込んでいることに気が付いてきます。自分という心の中の自分を取り外すためには、そこには自分がいない、そして多くの人と繋がるためのものが心である、心そのものは他の人と繋がるところである、それに気付くとすべての仕組みが理解されていきます。
Natsukoさんの心を見た時、あなたの魂のレベルにおいて、常に高い波動へと磨かれ、引き上げられ、また心を見るように仕組まれてきました。魂を磨きながら心を磨く、そのために常に自分の成長を考えながら他人を見ていくという二つのことが行なわれてきました。他人を見ながらその時に思う心一つひとつが魂に関与してきます。他人の心を見て自分の心に沸いてくる思い、感情、判断、いろんなものが魂に関与してきます。自分から見てまだ分かっていないと思う人、まだまだ未熟と思う人、そういう人々の心は本当は魂のレベルでとても高い波動の場合があります。あまりにも波動が高すぎてその人の心が追い付かず、またその魂と心の一致しないところをまるで劣っているかのように、未熟であるかのように感ずることがあるのです。したがって、多くの人々の心を見る時、同時にその人の背後にある魂をも見抜く練習が必要になります。心のレベルで未熟でありながら極めて高い波動の魂が感じられた時、あなはその魂の波動を必要としているのです。心のレベルで必要としているわけではありません。魂のレベルでとても高い波動があなたにメッセージを与える場合があるのです。あなたにとって自分の魂を研磨するには目の前の人の魂の波動を使う必要があるのです。そうすることにより自分の魂が磨かれていきます。心を通してその裏の魂を引き出してくる、一見荒々しい心の背後に極めて聖なる魂が宿っている場合があります。心に目を向けず、背後の魂を見ていく、そういう練習を進めていってください。
Gyoushinさま、心についてお話をします。心に常に良き正しき波動が送られ、コントロールすることを学んでおります。人間であるが故にその時々の感情や思いが沸き起こってくるでしょう。その一つひとつ、必ずしも天界の方で判断をしたり、何かを与えようとかすることは一切ありません。心は常に揺れ動くものであり、変化するものであり、輝く時があれば落ち込む時もあるでしょう。それ自体は心の持つ自然な働きであり、それをいちいちとがめることは一切ありません。あなたのレベルで必要なのは心がいろいろ変化する現実の中において、自分の本当の波動をどう広げていくか、さまざまに揺れ動く心の世界において、本質の波動をどのように引き出していくか。心が揺れ動く現実の中においてあなたの高い波動の部分は本当の奉仕をしようと常に考えています。相手が少しでも真実に目覚めるか、多くの人が何かの真理に気が付くか、悩みを解消させたり、不安を取り除いたり、積極的に前に進めるようになるか、常にこれを考えています。そして高い波動の部分では、そのように心が揺れ動いている人に対し、少しでも真理に目覚めるために何らかの働きをしようとします。その働きを成す時あなたの心と相手の心が繋がる必要があるのです。相手の持っている心と自分の心が繋がる時に、自分の高き波動が心を通して相手の波動の中に入っていきます。したがって、自分の心は相手の心の動きに応じて現象化されただけのことです。相手が不安や恐れを持っている時、自分もそれを感じ何か不安や恐れを感じてしまう、それにより心が繋がったのです。したがって、その後は自分の高き波動を心を通して相手に達するだけで良いのです。したがって、沸き起こる心のいろいろな動きに一つひとつあまり深く考える必要はありません。その時々に起こる現象に応じて自分の心が揺れ動いているだけのことです。そして本当に必要な時にはその心を通して相手に高き波動が流れている、その道具として心を使っているだけなのです。心を洗練させればさらに素晴らしい波動を送り届けることができるでしょう。そのために心を修練することは確かに意味があります。しかし無くすとか、常に静かな状態であるという必要はないのです。自分の悟りのためには必要でしょう。しかし他人に自分の高き波動を渡そうとする時は相手に応じた心の波動の変化が訪れてくるのです。それを使いこなすように工夫をしてみてください。
Akiraさんの心、これまでのいろんな学びにおいて、自分なりのやり方がよく身に付いてきて、自分のペースで自分のやり方で成長が行なわれております。自分に見合った心の成長の仕方、魂の成長の仕方があり、あなたはそれをうまく進めてきております。ただ心という観点だけで見ると、そうは言っても自分でコントロールできない自分の心につい苛立ったり、不安になることもあるようです。自分に合わない苦手な人とか、自分とタイプの違う人、うまく波動が会話できない人がくると自分の心がなぜか離れていったり、遠ざかったりしてしまいます。まず相手の心の波動に応じて自分の心の波動が変化するのはそれはある意味では当たり前のことであり、それ自体に罪悪感を持つ必要はありません。苦手な人が来て心が反発したとしても、自分を責める必要は一切ありません。そういうものなのです。その中において理性を使い、心が逃げようとしていても最低限の礼儀や作法、言葉使いで相手と接していく、確かにこれは求められてきます。それさえも自分にとって嘘をついているからしてはいけないという人もいますが、それでは社会が益々混乱する状態になっていくでしょう。やはり社会をある程度平和な状態にもっていくためには、たとえ心が嫌っていてもやはり理性を使い、相手のために最善を尽くす、礼儀を尽くし正しい言葉を言う、これは必要とされるのです。その時に心が嫌がっていたとしても自分を責める必要はありません。心の波動が反応しているだけであり、心は単に相手との間でエネルギー的に動いているだけのものです。それは自分の本当の姿ではないのです。心が揺れ動いたとしても自分を責めることなく、理性を使い、その相手との関係をうまく持っていく、そういうやり方で自分なりの正しい方法を見つけていってください。
Yukariさんの心を見た時、あなたの心の波動が急速に急速に変化していき、以前の自分の心の波動とはかなり違うレベルに到達してきております。しかしまだどこかに以前の自分の心を思ったり、それを自分のものとしてつい戻してしまう場合があります。自分の心の中に昔のことを思う心と新しい変化した自分を思う心がある時、新しい方の心が今の自分に見合った波動の心であり、以前に戻す必要はありません。以前に戻そうと思うとその瞬間に以前の心の状態になってしまいます。しかしなるべくそこに意識を向けず新しい自分の心、それは常に多くの人々の中でも自分を維持しながら正しいことを行なっていく、周りに合わせるのではなく真実に合わせていく、流れで進むのではなく、用意してくれた道を歩いていく、自分に見合った新しい生き方が段々感じられてきています。自分が感じられてきた新しい生き方、自分に訪れてくる新しい自分、そこに常に意識を向け、自分の正しい歩き方を身に付けていってください。
Ayakoさんの心を見た時、あなたの心がとても穏やかに冷静に落ち着いて機能する時があれば、現実の荒波の中でついそれに負けてしまったり、合わせてしまう心があります。比較的余裕がある時は自分の安定した場の中で維持できますが、コントロールできない場がやってきた時に自分の価値観が急に混乱してしまい、いつの間にか回りに関与された心になってしまいます。どのレベルまでが自分の場を維持することができ、どのレベルで周りに動かされてしまうか、その境い目のところを見るようにしていくと良いでしょう。一般にいわゆる仲の良い人とかうまく場がつくれる人という状態の中で、信じていたことがそうではなかったり、予想していたことが違っていたりすると途端に混乱を招くようです。いかに落ち着いた冷静な場であったとしても他の人に対し期待をする、あるいは思い込んでしまう、そういう風に決め付けてしまう、そうすると必ずそうではないという現象が現れてくるのです。ああいう人だという風に決めるとそうでない部分が必ず現れてきます。こういうことをやってくれると期待しておくとそうでないことが必ず現れてくるのです。その時にあなたは混乱をしたり、信じられなくなったりしてしまうのです。したがってこの人はこういう人とか、この人はこれをやってくれる、こういうもの、そういう思いをつくらないことです。すべての人がそういう範囲の行動ではなく、決まった行動をしておらずいろんなことをしている、初めからそう思っておいてください。ある一定の枠内に人を当てはめてしまうと、その枠の外側の人が必ず現れてきてその枠を取り払おうとするのです。他の人に対しての見方を変えてみて自分自身の心をどの時点でも安定するようにもっていってください。
Yokoさんの心を見た時、あなたの心に本当に幸せを願う心、人々が健康になり豊かになることを考えているところがあります。本当に皆が健康になり、平和で豊かになる、そういう社会を求めています。しかし現れてくる現象はすべて人々が自らつくり上げたものであり、勝手にいろんなものが押し寄せてくるわけではありません。いろんな原因が複雑に絡み合っているために、一言では言えませんが、いわゆる不愉快なこと、不快なこと、嫌なことというのは、すべてその人自身の心から生み出されたものです。ほんのわずかでもあの人は嫌とか、この人は嫌、これは嫌、これはだめ、そういう思いがあるとそれが必ず現実に現れてくるのです。その現実の現れとして争いや不健康、あるいは突然の嫌なこと、いろんなこととして現れてくるのです。したがって、嫌なことや不健康、争い、そういうことが起こらないようにと思っても、それ自体が嫌なことを呼び寄せてしまいます。初めからその人の考えたことが現実化している、その人の思いが現実化している、ただそれを理解しておくと人それぞれその人に見合った現象が現れているのです。ここでだからといって病に苦しんでいる人や、うまくいかないと嘆いている人、いつも不平不満を言っている人、そういう人たちを下に見たり、愚か者と見たり、未熟者と見ると自分はそれ以下になってしまいます。どんな状況にせよ他人を下に見たところで自分はその下に入っていきます。困っている人がいるとその人の所為と思うのではなく、やはりその人を何とかして光あるようにもっていかせよう、助けてあげよう、その人を良くしてあげよう、やはりそういう思いが必要なのです。平和になりたい、健康になりたい、多くの人がそう考えています。そのために手伝ってあげることも良いでしょう。しかしそれと同時に嫌なことがその人に押し寄せてきている原因も必ずあるのです。それを自分で理解していただき自分で解決していく、それが無い限りその人は本当には幸せにはなりません。いくら自分がその人のために何かを尽くしても、本人が分からない限り、本人が自分で解決しない限り、その人は平和は訪れないのです。最終的には人それぞれ自分の問題になってしまいます。しかしだからといって自分で解決しなさいと言うと、もう自分は愛がなく、その人よりも下になってしまいます。その配分はとても難しいですが、段々要領が分かってくると人を豊かにしながらも自分も豊かになっていく、その心の使い方が理解できてくるでしょう。ぜひそれを自分の日常生活の中で見つけていき、自分も他人も両方が幸せになる言動を探していってください。
皆さんの心を説明させていただきました。心は自分の心と思っていても実際には周囲の人の波動がかなり強く影響しているものです。自分の目の前の人が一人いなくなったり、現れてくるけで心が変化するのがその良い例でしょう。自分の心は周りの人によって動かされているのです。その心を自分と思わず、しかし自分の一つの現れであるということも理解しておいてください。それではここで休憩を取ります、ありがとうございました。