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2009/7/6 月曜交流会

人を見て法を説く

@悟りを得るということ

私はアルテミスの波動を持ってきて皆さんとお話をしていきます。今現れているのはアルテミスの波動の中の悟りに近い波動を持つ仲間たちです。皆さん方に悟りについてお話をしていきます。多くの人がスピリチュアルな学びをする時、悟りを得ようと考えていきます。スピリチュアルな勉強をすること自体が悟りへの近道であり、悟りそのものを教えてくれるかもしれない、スピリチュアルな学びをすることにより悟りが得られるかもしれない、そういう思いでこの学びをする人がいます。

確かにこの地球の歴史において悟りを得たと評価されている人は、宗教家であったり、あるいは哲学の世界で学びを得たものになります。しかしだからといって宗教を始めたり、哲学を始めると悟りが得られるというわけではありません。悟りを得るということがどういうことであり、生きるということがどういうことなのか、まず多くの人はなぜ悟りを得ようとするのか、悟りを得ると人生の目的が分かり、苦しみや悩みがなくなり、人生そのものが有意義な人生を過ごすことができる、そのように考えている人が多いと思われます。

しかし悟りを得ている人は本当に喜びで人生を過ごし、一切の悩みや苦しみをなくすことができたでしょうか。一番の悟りを得た人として知られているイエスキリストは悩みや苦しみがまったくなかったでしょうか。他の聖人君子にしても悩みや苦しみがまったくなかったでしょうか。それに対し、ごく普通の生活をしていて、ごく普通の家庭の中で、満たされた生活をずっと続けている人もいます。

こういう人は悟りを得ていると言えるでしょうか。何も疑問も悩みも苦しみもなく過ごしている、それが悟りを得るという証拠になるでしょうか。残念ながらそれは悟りを得たという証拠にはまったく結びつかないのです。宗教の教祖やお坊さんたち、彼らはそれぞれ口伝で伝えられた生きる目的や人生、この世の仕組みを理解しております。

なぜ人間が苦しむのかも理解しています。では自分自身は苦しみは一切ないのでしょうか。やはり毎日いろんなことが起こっております。悟りを得たからといって苦しみから解放されるという保証はないのです。では悟りを得るということは何を現すのでしょう。仏教的に言えば皆さんが現実と思っているもの、この目に見える世界、これはすべて虚像であり、幻であり、本当の自分の世界ではないということ、自分の姿にしても自分の性格にしても本来の自分ではないということ、あくまでも仮の世界で仮の姿をして人生を体験している、その仕組みに気づくこと、これが悟りを得るという内容になります。

すべてが虚像であり、幻である、だからといって苦しみがなくなるのか、というとそうではなく、やはり日常の生活において自分のコントロールできないいろんな状況が襲ってきます。感情が動き、分からないところもたくさんあります。悟りを得たとしても人間として生きなければならないのです。そこで押し寄せてくるいろいろな課題、理解できないこと、克服できないこと、分からないこと、こういったものすべても所詮は幻であり、仮の姿であること、しかし生きなければならない、これが本当に悟った人の言葉です。

すべてが幻であり、すべてが見せかけ、自分の姿も仮の姿、しかし生きなければならないのです。しかも全力をもって生きなければならない、幻だからといって適当に過ごしたり、適当に相手をあしらったり、いい加減な言葉をはいて良いというわけではありません。目の前の人と全力で誠心誠意、愛をこめて接しなけれればならないのです。

一瞬一瞬を自分の力のすべてを使って、自分の持てるエネルギーすべてを使い最高の状態で生きる、これが本当の悟った人の生き方になります。見えているものが虚像であり幻であるからこそ必死になって生きなければならないのです。本当に悟りを得た人ほど一瞬一瞬を真剣に全身全霊を込め、一生懸命生きているのです。どうせ幻だから、どうせ仮の姿だからといって適当に過ごす、適当にやり過ごす、こういう生き方をしている人は何一つ悟ってはいないのです。

幻であり自分が仮の姿であるということを口に出したところでそれは悟りを得たことにはなりません。悟りを得た人の言葉をただ鸚鵡返しで言っているだけであり、何一つ悟ってはいないのです。本当に悟りを得るとすべての虚像の裏にすべての真実が隠されており、一生懸命全身全霊を込め、必死になって生きることがいかに大事なことなのか、仮の姿の後ろに隠れている本物と繋がるためには必死になって生きなければならないこと、自分の生命のエネルギーすべてを使い、自分のすべての愛を表現しない限り本当の世界には繋がらないこと、これが本当に分かってくるのです。

今見えているものは幻である、でもその背後には本物が隠れている、隠れている本物と繋がるためには今の一瞬、一瞬を全身をもって全力で必死になって生きること、これが本当に大事なのです。今を必死になって一生懸命生きる、これが幻の後ろに隠れている本当の世界に繋がる秘密なのです。

一生懸命生きる、必死になって生きる、これに同意できない人がたくさんいるでしょう。人生をもっと楽しまなければいけない、人生は喜びで楽しく生きなければならない、こういう人もたくさんいるからです。楽しくなければ人生ではない、どうせ生きるのなら楽しく生きよう、どうせ全部仮の姿であるならば楽しまないと意味がない、このように言っている人もたくさんおります。

本当に悟った人はどう言っているでしょうか。本当に悟った人は今のこの仮の姿を何とかして人のために使いたい、神のために使って欲しい、自分の喜びのためという風には悟った人は言っていないのです。人のために私の体を使ってください。神のために私の体を捧げます。この境地を皆さん方は理解できるでしょうか。

この肉体の世界は仮の姿、幻であり、望んでいないことばかりがやってくる、求めていないことが要求される、何をやるにも手間暇が掛かり、時間が掛かり、面倒臭い、波動がとっても低い、こういう世界において多くの人はその中でいくばくかの喜びを得ようとする、つまらない人生なの、自分が楽しいことをやりたい、そしてその自分の楽しいことをいかにして見つけるか、それを多くの人に説き、それで悟りを得ているかのような状態をつくり上げていきます。

本当にそうやってずっと悩みをまったく抱えないで一生を楽しく過ごしている人がいるでしょうか、あるいはこれまでの人間の歴史においてそういう人がいたでしょうか。ただ自分の好きなことを手一杯やって一生それで何一つ不自由なく過ごせる、そんな人がいたでしょうか。

あるいはそういう人がいた場合にそういう人を悟った人と言ったでしょうか。悟りを得るということは本当に人のために尽くすことが大切なのだということを悟ることです。悟りを得るということは神のために我が身を差し出すことをこれに本当に気付いた時なのです。

我が身を捨てるということ、この仮の姿を人のため、世のため、神のために差し出すことが本当に大事だということに気が付くこと、これが悟りを得ることです。自らの喜び、自らの満足のために生きようとして悟りを開いたものはおりません。悟りを得るということはいかに自分の身を世のため人のため神のために差し出していくか、したがって、これが分からないうちは悟りも得られないでしょう。ましてや悟っているという人の口から、自らの欲望や自らが満足することばかりが出てきている場合には、その人はまだ悟っているとは言えないでしょう。

悟りとは何か、簡単ではありません。今私たちがこう述べたからといって、じゃ皆さん方が他の人に悟りとは人のために尽くすことだと言ったところで、それは悟った言葉にはならないでしょう。本当に悟ると人それぞれに応じた言い方が必要だということが分かってきます。人それぞれ悟るべきレベルが違い、悟れるエネルギーも違うために、その人その人に応じた表現の仕方が必要になってきます。

したがって、人によっては、まずは自分が楽しいことをやってくださいとそれを言うだけで十分な場合もあるでしょう。人を見て法を説く、人に応じて一番必要な言葉を与えていく、これが本当に悟った人の言動になっていきます。頭で分かっている知識を多くの人に同じようにただ言って回ったところでそれは悟った人の言葉にはなりません。

本当に悟ると一人ひとりに違う言葉が必要となるからです。皆さん方が悟りを得ようとする、何故悟りを得ようとするのか、自分の人生が楽になるから、苦しみから解放されるから、もしそういう気持ちで悟りを得ようとしているのであれば、それは悟っても得られることではありません。

いくら悟りを得たからといって悩みや苦しみから解放されるとは限らないのです。どれだけ悟りを得たとしてもまた次なる悟りのレベルがやってくるために、また新たなる悩みや苦しみがやってくるからです。それまで悟っていたと思っていたことがまた分からなくなり、新たなる次の悟りへと向うからです。

こうやって次から次と学びのテーマがやってくる、その度にこれまで悩みや苦しみと思っていたことからは開放されます。したがって、自分と同じレベルで苦しんでいた人、悩んでいた人に対してはアドバイスをすることができるでしょう。しかし自分自身はまた新しい旅へと進み、自分だけの克服すべき問題に直面することになります。

皆さんもぜひ悟りということを意識しながら、最終的には世のため人のために繋がっているかどうか、自分の悟りは人のためになっているかどうか、常にそれを考えるようにしてみてください。


A争いを避ける

私は古代の日の本の神の一人として姿を現しております。古代の日の本の神、皆さん方のマインドの意識を使うと、数千年前のこの土地における指導者ということになります。日の本の国が、ある時期はとても豊かで、神を崇めながら人々の信頼を得て発展していた時期がありました。

その波動の中で人々は尊い教えを常に学ぶことができました。人々は物質の世界で生きながらも自然のことわりを学ぼうとし、何故物質世界にいろんなことが起こるのか、物質世界における森羅万象の変化、人間の成長、万物の生々流転、いろいろのことに意識が向き、その原理を神々から聞こうとするものがたくんさんおりました。

その当時にあって、すべての仕組みを理解していたものが神であり、神は人々からの質問や悩みを的確に答えることができました。それ故に神なるものは威厳があり、信頼され、そしてまたその世界の流れを見ることができました。この日の本の世界が次第に大きく大きく変化していき、自然が神々の言う通りでは動かなくなっていきました。

神々の約束した現象が起こらなかったり、神々の思いが人々の中に入らなくなっていきました。人々の中に病というものが蔓延し始め、邪なるものたちに妨害が入ってきて、神々の生き方とは異なる生き方をするものが出てきました。次第に邪なるものたちは数が増えていき、力ずくで神々という存在と敵対するようになっていきました。

神々たちは争うという方法は取らずに、そこにおけるものたちをおいていき、神の御心と合うものたちをつれていき、別のところへと移動することになりました。このようにして神たるものは、神と心を同じくするものたちと共に活動を行ない、邪なるものが増えてくると争わずに彼らをそこにおきながら移動するというやり方を取っていきました。

しかし時が経つにつれ、神から離れた邪なるものたちは次第に力ずくで奪い取るというやり方が普通になっていきました。力ずくでお互いに奪い合うという世界が広がっていき、そしてしまいには多くの人々を彼らが支配するという状態になっていきました。神の仲間で学びをしているものはそういう邪なるものにも更生の機会を与え、改心の機会を与え、常に本来の良き心に戻れるようにと彼らを許しておりました。

この日の本の神々は日の本の波動を維持するために、なるたけ争うことはせずに、本来の日の光をしっかりと残し、そして人々の心にも日の本の波動を定着するように、常に心を一つにしておりました。しかしだんだん邪なるものが増えるに従い、神なるものたちも脅かされていき、ついには神のものたちも邪なるものたちの手に入ってしまい、神としての尊厳や地位が別のものたちに奪われてしまうという状態になってしまいました。

本来の日の本の光を維持しようとしても、とてもそれが継続できない状態になってきております。本来の光を保持するということがとても難しく、今はどのような方法を使っても必ず邪なるものたちに妨害され、またエネルギーの保持ができないようにされてしまいます。

皆さん方がこの本来の光をどこまでしっかりと保持し、この日の本の国に残していくか、邪なるものたちに負けることなくいかにこの本来の波動を繋いでいくか、今それが本当に重要な時期になってきております。日の本の民族として生まれてきている人々は、本来の光と邪なる光の両方から影響を受けております。

そして本来の日の本の光をずっと保持するか、それとも邪なるものたちの影響で寝返ってしまうか、今それが一人ひとりに起こっている現象となります。邪なるものに負けることなくぜひとも本来の日の本の光を維持し続けるようにしていただきたいと願っております。皆さん方が本来の日の本の光をしっかりと保持して、これからも自らを通してこの土地に残せるように、日の本の光を体でしっかりと受け取り、体に定着させるようにしてみてください。


アメノヒツイミヒカリをうけよ

皆さん方がしっかりと天の日の本の光に繋がり、邪なるものに負けることないように。

Madokaさんの波動において、自らの心の弱さをよく知ってください。自らの心の弱さがどこに隠れているか、自らを何か言われたり、責められたり、何か一言言われるとつい心で感じてしまう、弱みを見られたくない、知られたくない、それ自身が弱みになっています。自分の弱さ、それを強い心に変えることです。弱さを指摘されたとしても、それを弱いと思わず、そこにこそ自分の強さが隠れている、自分はそこを強い波動に変えることができる。一見弱い心と見せながらもそこを自分がしっかりと学び、パワーを入れることにより強きところとして現すことができる。そこが自分の強さであるという風に意識を持っていき、弱いという意識を心の中から追い出すようにしてみてください。

Tsukikoさんの邪なるものの妨害は、自分自身が何かを行ない、それによって評価される、見てもらえる、周りから良く思われる、そこに魔が入っていきます。それ自体が邪なるものたちが入ろうとしている世界になります。それを光に変えるには、多くの人に見せるとか、分からせるというのではなく、いかに多くの人の奉仕のために自分の体を使えるか、多くの人が喜ぶためにいかに自分を使っていくか、自分が前面に出るのではなく、むしろ自分が多くの人のために使っていく、それによって多くの人が知らず知らずのうちに光が与えられ、成長していく、そのやり方を身に付けた時、邪なるものは介入できず日の本の光が多くの人々の心に流れていきます。人々の心の中に本当の光を入れるためにも、自然に普通に人々に奉仕をするという気持ちで接していく、ぜひそれを身に付けていってください。

Mayumiさんの邪なるものたちの妨害、これはあなた自身が何かをする時、常に無駄なエネルギー、妨害と感じているもの、面倒臭いと感じているもの、そこに邪なるものが入り込み、少しでも先に進まないように、なるたけ分からないように目立たないように、そういう気持ちを起こさせてきます。それにより人々へ奉仕するという気持ちが起こらないようにさせていきます。少しでも悟りに近づき、人々への奉仕が本当に大事であるということ、人々のために成すということが貴重な体験であるということ、人々のために成すことであれば辛くても苦しくてもやる価値があるということ、これを本当に理解することです。そしてそれが本当に分かった時に悟りが得られ、自分の周りにある面倒臭さや、辛さがすべて奉仕への大事なエネルギーに変わり、むしろ人に奉仕するためにこの機会があるということの喜びや奇跡を感ずることができるでしょう。ぜひ人々に奉仕するということがいかに大事なのか、ぜひそれを心から理解できるように学んでいってください。

Akiraさんの邪なるものたちの妨害は、あなた自身が何かをなそうとする時、常に何か目に見えない妨害、目に見えない壁、制限、こういったものが感じ、そしてそれがはっきり分かってくると、もうやりたくなくなってしまう、無駄だと分かってしまう、先へ進めなくなってしまう、こういう感覚になってしまいます。これが妨害しているものたちの作戦であり、常にあなたがやる気を失わせたり、やらなくても良いという思いをさせてしまう、もうそこで良いという風に思わせてしまう、そういう風にして企んできます。あなたがそれに負けないで進むためには、自分が本当に必要と思うもの、大事だと思うもの、大切だと思うものは何があっても最後までやり遂げる、いかなる理由があっても本当に必要と思うものは、最後までやり遂げる、常にこれを行なうことです。どのような妨害の波動やできそうもないこと、制限が感じられたとしてもそこで留まったり、戻ったりせずに、ぜひ最後までやり通すということ、そうすれば邪なるものたちの妨害は身に伏してしまい、あなた自身の強い光が完成することになるでしょう。自分が本当に大事だと思うこと、それを最後まで完結する勇気と強さを身に付けていってください。

一人ひとりに強い光があると必ずそれを妨害するものたちが現れてきます。しかしその妨害は皆さん方から見たら妨害ですが、これは神がまた与えた役割でもあり、それによって皆さん方はより強い光を身に付けていくのです。生きるということは光を身に付けることであり、しっかり生きることによってより強い光が身に付いてくるのです。

生きるということは光を手に入れること、生きることにより光が手に入る、人に奉仕することはその人に光を与えること、その人に光を与えることは自分自身の体を通して光が流れていく、自分が光の導管として他の人に光が広がっていく、人に奉仕するということは自分の光が広がるということ、生きるということ、奉仕するということは自分自身の光が広がり、自分がどんどん大きな光になっていく、これを本当に理解し、生きるということ、奉仕するということの本質をぜひ体で理解できるように学びを続けていってください。それでは少し休憩をとります、ありがとうございました。


B人間が神の意志に近づくこと

私たちは天使の世界からお話をいたします。今日は悟りについて皆さん方がいろいろ学びをしております。どこまでいっても学びは続きます。私たちの世界でもそれぞれのレベルに応じていろんな学びがあります。ただそれは皆さん方の考えている学びとはかなり質的に異なるものがあります。

おそらく皆さん方の場合は、知らないことを理解する、分かっていないことを分かれるようになる、それが成長であり、また悟りに近づく方法と思っていることでしょう。しかし私たちの世界では神からの意志が先に感じられ、その意志に従って行動を取っていきます。

私たちは皆さん方がどういう神になろうとしているのか、皆さん方にふさわしいやり方としてどういうものがあるのか、実はそこまではまったく分からないのです。でも明らかに神の意志が感じられ、何かをしなければならない、いつまでに何かをしなければならない、そういう思いが確実にひしひしと伝わってきます。

神の思いを人間の世界に持ってこようとしても、それが人間の皆さん方にはほとんど理解されていないめたに神の意志をどのようにして皆さん方に現していくか、私たちがいくら行動してもそれは神の意志として皆さん方に伝わることはありません。

皆さん方からすれば偶然と思うこともあれば、むしろ不快に思ったり、うまくいかなかった、思ったことがうまくいかない、いくら言っても思いが伝わらない、そのように理解されることがほとんどです。でも私たちの世界から見た時には神の意志が先にはっきりと感じられ、神の意志に従って私たちが動くと皆さん方の思っていることとはまったく違う流れに進んでいくのです。

どのようにして皆さん方にこの神の意志を伝えていくのか、どう表現しているのか、私たちはそれをいろいろと考え、工夫し、新しいことを試みているのです。私たちにとっての学びはそれであり、またそれがうまくできるようになることが成長することにもなるのでしょう。

私たちは私たちの世界でそれぞれいろんな神の意志の感じ方があり、天使それぞれによって神の意志の感じ方が異なっているのです。したがって、同じ天使の仲間同士でも神の意志の受け取り方が違ったり、場合によってはまったく違うように神の意志を感ずる場合があります。私たち自身もそうやって神とは何なのか、どうやって神の意志を感じていくか、それを学んでいる最中なのです。

皆さん方もまずいろんなことをやってみて、知らないことをどう理解していくか、自分がどう光を身に付け、自分の意志の強さをさらに増していくか、新しいことを興味を持って学びながら、常に神に近づいていく生き方を身に付けるようにしていってください。それではここまでにいたします。ありがとうございました。


(c)2009 CentralSun
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