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2006/9/4■月曜交流会から

証を得ようとすると過ち

@徹底的に自分に目を向けること

私たちはハイアラーキーの仲間としてお話をいたします。今日は皆さん方のスピリチュアルな学びについてお話をしてみます。自分の毎日の生活でスピリチュアルな生き方をどの程度具現化しているか、多くの人は確かに肉体への意識がとても中心的になっており、生活のほとんどは肉体生活のことを意味しています。

そして一部精神的なもの、魂が響くもの、そういう意識を持って毎日を過ごしている人は魂の世界でも同時に体験していると言えるでしょう。しかしスピリチュアルな観点から見た時、自分がどの程度スピリチュアルな生活をしているのか、ごく一般的な普通の人を見た時には、個人差があったとしてもやはりスピリチュアルな意識はせいぜい10パーセントくらいではないかと思われます。肉体生活が大部分を占め、あとは心や魂に関しての意識がわずかあるという感じと言えます。

しかし人のことをいろいろ考えたり、いわゆる思いやりや相手の身になって考える、家族や友達のこと、上司のこと、いろんな人の心を考えるようになっていくと、魂の世界でのエネルギーがたくさん使われるようになり、魂の働きがかなり日常生活に入り込むことになります。したがって、人によっては魂の活動はかなり発達している人もいます。

どんなことをやる場合においてもまず自分のことよりは相手が何を考えているか、相手がどうすると喜びを感ずるのか、相手のために自分は何が出来るのか、常にそういう感覚で感じている人は魂のエネルギーをかなりの比率で使っていることになります。しかしスピリットの世界から見た時には、いわゆる神としての意識、神を想定して神に対峙しているかのような意識、常に神から見られているという意識、常に神に育てられ、神からエネルギーを与えられ、毎日の一瞬、一瞬が神のおかげで生活できている、そういう意識になって初めてスピリチュアルな生活ができているものと言えるでしょう。

したがって、まず基本的にスピリチュアルな生活をしているというのは、常に神から見られている世界の中で自分と神との関係を理解しながら生活をしている、そういう意識になってきます。自分が毎日どの程度スピリチュアルな生活をしているか、食事をする場合、仕事をする場合、いろんな意味において常に神は何を自分に与えているのか、神は自分に何を与えようとしているのか、自分は神の意志を正しく感じているかどうか、そういったことを常に意識できている人はスピリチュアルな生活をしていると言えるでしょう。

エネルギー的なものがどの程度感じられ、コントロールできるか、これはある意味ではスピリチュアルな意識とは別の意識になってきます。確かにエネルギーが見えると相手の心や魂の世界についての理解が深まることになります。したがって、エネルギーが見えたり感じられたり、コントロールできる人は魂の世界についてはかなりかかわりを強くすることができるでしょう。

しかしだからといって同じように神を扱うことはできません。神は見ることはできず、話すこともできず、神と直接のコミュニケーションは人間にはできないからです。したがって、神との関りにおいて何らかの証を得ようとしても得ることはできません。仮に神から何らかの証をもらった、証を見た、もしそういう人がいたのであれば、それは単なる勘違いか、妄想か、自分の幻想で編み出したものであり、真の神ではありません。

多くの人は何らかの証を得たいと思い、その証を得たことによって自分が優れているという感覚を得ようとします。また自分のやっていたことが正しかった、これで良かったという何らかの証を得ようとします。しかし神は皆さん方に証を与えるために存在しているわけではありません。

何故たくさんの人間がいるのか、何故自分の周りに数多くのいろんな種類の人間がいるのか、それは皆さん方がお互いにいろんな人々と話し合い、理解し合うことによって自分の方向性を確認し、自分がどこに向ってどこに行くのかを確認するためにいろんな人間が用意されているのです。したがって、自分の方向性を確認するのは神に聞くのではなく人間との会話によって確認することになります。

何故神から証を得ようとするのでしょう。人間に聞いても得られないから、人間にはどうせ全部は知っている人はいないから、もしそう思うのであればそれは自分自身も何も知っていないことを意味し、自分はすべてを知ることもできないということを意味します。もともとそれが人間であり、人間はお互いに協力し合うことによってのみ少しずつ理解が深まっていきます。

神は常に人間から見れば遠くに見えるように設定されており、皆さんの身近な所でいちいち指図を出したり、証を見せるために存在しているわけではありません。したがって、まず証を得ようと思う気持ちそのものを心から取り除く必要があるでしょう。証を得ることよりも人間同士がコミュニケーションを取り、話し合い、理解することによって少しずつ前に進み、理解を深めていく、それの繰り返しになります。

証を得ようとする気持ちが魔を呼び、そして魔からつくられたまやかしの証によって方向性を間違え、自分が正しいと思った道が実際には正しくないという経験を何度も繰り返すことになります。証を得ようと思えば思うほど過ちの証が現れてきます。何故証を得ようとするのか、結局自分で判断できない、自分では分からないから何かに指標を出して欲しい、それこそが魔を呼ぶ波動であり、自分の弱さを現わしているのです。

自分のやっていることが正しいことか正しくないことか、そういうことを気にしていては何一つ行動できないでしょう。言葉としてはすべて光の道に向かい、すべて正しいことをしなさい、言葉としてはとても美しく、響きの良い言葉かもしれませんが、現実的に人間がそれを行うことは不可能です。人間である限り迷い、彷徨い、過ちを犯し、転んではまた起き上がっていくのです。

まったく間違いを犯すことなくひたすら光の道に進んでいる人間というのは一人として存在していません。そうなれば人間ではないからです。過ちを犯すことを恐れてはいけません。一つひとつ、いちいち、光から離れてしまったとか、光から違うとか言って気にする必要もありません。基本的に過ちを犯すことによって理解し、成長し、前に進んでいく、そういう経験則そのものは何一つ間違いではないからです。

むしろすべてに恐れ、何一つ行動しないもの、何一つ前に進まないもの、これこそが一番の悪となります。スピリチュアルな世界において多くの人がそれは正しい神か、過ちの神か、そのメッセージは正しいのか、間違っているのか、その存在は光なのか闇なのか、やたらとそこにばかり意識を向け、非難ばかり繰り返している人もたくさんおります。

所詮人間の受け取るメッセージにおいてすべてを正しく受け取るということは不可能なのです。しかしすべてを闇として受け取ることも不可能です。基本的に人間の受け取っているメッセージには必ずその人間の概念が入り込んでおり、そこにいろんなエネルギーが一緒になって流されてきます。それを一人ひとりがしっかりと取捨選択し、自分は自分にとっての真実だけを選び出していく、そういう作業は一人ひとりが自分で行なわねばなりません。

それは一人ひとりの仕事であり、他人に聞くべきものではなく、また他人が教えられるものでもないのです。自分の人生は自分について自分で考えること、これがまず自分でやらねばならない役割です。自分の人生を人に預けてはいけません。自分の人生を人に解決してもらう意味はありません。自分でつくり上げるものです。スピリチュアルな世界になったとしても自分で自分の人生をつくれないものは、何一つスピリチュアルな生活をすることはできないでしょう。

何がスピリチュアルなのか、何が光なのか、善とは何か、まずはそれをしっかりと考えてください。何が光であり、何が善であるのか、それをまったく考えることなくして光の道だの、善か悪だの他の人に聞く質問の意味はまったくありません。もし他の人に光や善という言葉を問うのであれば自分は徹底的に何が光で何が善なのかを毎日毎日考える必要があります。その上で自分の存在は何か、自分の存在は善なのか、光なのか、悪なのか、徹底的に自分自身を見つめる必要があります。徹底的に自分自身を見つめた上で初めて光の道って何なのだろう、善とは何なのだろう、他の人に聞く権利が出てきます。

まずは自分自身にもっともっと目を向け、自分自身を観察し自分の流れをよく見てみる、やるべきことはたくさんあります。自分をテーマにした学び、これはそれを行わない限り先に進むことはありません、。他の誰に聞いても答えられるものではなく、与えられるものでもありません。自分でつくるものです。自分でやるということをはっきりと意識し行動に移すようにしていってください。


Hiromiさんのエネルギーを見た時、あなたのスピリチュアルな意識があなたの思っている以上に活動しています。あなたは自分でまったくスピリチュアルな意識が目覚めていないかのような感覚を持っていますが、実際には普通の人以上にスピリチュアルな意識は目覚めています。ただそれを自分でスピリチュアルな意識とは感じていないために自分で自分を勘違いしているところがあります。自分の意識は自分にしか理解することはできません。自分の持っている感覚、それは自分だけのものです。常々スピリチュアルな世界についていろんな考えをする、いろんなことを思っている、それでスピリチュアルな世界との繋がりができています。問題は自分の体についてそのスピリチュアルな波動をまだ降ろすことができない状態になっています。スピリチュアルな波動を降ろすためには体をしっかりとつくり上げる必要があります。いわゆる体を神殿にする必要があり、体を神殿にして初めて神のエネルギーが宿ってきます。自分の体を教会のように神殿にようにつくり変える、そうすることによってスピリチュアルな体が出来上がってきます。教会のような体にする、そのためには三次元的な波動の荒いエネルギーは体から追い出していく、そういったエネルギーに振り回されない、日常のいろんな考えにおいて俗的なもの、感情的なものを体から少しずつ出していく、こういうトレーニングが必要となります。それを行わない限り体が神殿になることはありえず、神の波動が降りてくることもありません。自分の体をしっかりと神殿として理解する、つくり上げていく、まずその決意が必要であり、それに向けてのトレーニングも必要となります。普段の生活のままで肉体が神殿になることはありません。自分の体を神殿につくり変えていく、そういう意識を常に持ってトレーニングを始めていってください。

Akikoさんの体を見た時、あなたの意識においてスピリチュアルな世界が体にかなり宿ってきています。ただそれも自分の中では何がスピリットなのか、どこまでが三次元なのか理解できないところがあるでしょう。まだまだ空想的なこと、つくり上げた概念が支配しているために、本当のスピリットのエネルギーと自分でつくり上げたエネルギーとの違いが混濁となっており、自分でしっかりと区別できな状態になっています。そのためには毎日のいろんな思い、頭の中でいろいろ描いていることを自分の一方的な見方だけでつくるのでなく、もっと大きな観点でいわゆるスピリチュアルな観点から見た時にどういう事態なのか、大きな世界から見た時今の自分や周りの人はどう映っているのか、常に大きな観点から見る必要があります。今は自分だけの思いの世界が出来上がっており、そこからすべてを判断しようとしています。そうするとどうしても自分の世界から脱却することはできないために、他の人との接点が小さくなり、スピリチュアルな世界との繋がりも小さくなっていきます。大きな観点で眺めてみる、大きな世界を意識していく、そういった観点で自分のスピリチュアルな世界との繋がりを強くするようにしていってください。

スピリチュアルな勉強を始めると普段自分の知識にないことや、普段の知識にないことについ興味がいき、知識的な興味でいろんな勉強を進める傾向があります。しかしスピリチュアルな世界は基本的に言葉で現わされるものではなく、たとえどれだけ念入りに丁寧に言葉を選んだとしても本当のスピリチュアルな世界を現わしたことにはなりません。基本的には感ずるということがない限りスピリチュアルな世界を理解することはできないと言えるでしょう。

スピリチュアルなエネルギーを感ずる、スピリチュアルな波動を感ずる、このトレーニングはやはり必要と思います。スピリチュアルなエネルギーを感ずることなくしてスピリチュアルな世界を語ることはできません。したがって、何らかのトレーニングはやはり必要となります。知識だけの勉強ではなく実際にスピリチュアルなエネルギーを感じていく、両方バランスの取れたやり方で練習をしていくようにしていってください。それでは少し休憩を取ります、ありがとうございました。


(c)2006 CentralSun
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