私たちは、キリスト意識として皆さん方に波動を送り、目覚めや成長をなそうとしております。皆さん方が愛に目覚め、行動し、愛することの尊さが理解できた時、他を生かすということがいかに大切であり、本質的であり、また、難しいものかが理解されていくでしょう。他を愛する。愛を求めている者は多くいます。愛して欲しい、愛されたい。彼らが望んでいる愛はどういう愛でしょう。慰めて欲しい。楽しくさせて欲しい。豊かにして欲しい。これは愛ではなく、執着であり、甘えであり、責任転嫁でもあります。
心を豊かにするのは自分であり、自分が豊かな心を持って人と接すると、自分の心も周りの人も豊かになっていきます。自分が自虐的な思いを出したり、自己否定の思いを出して接すると、周りの人もそのエネルギーを受け取っていきます。自分を否定する思いを出して愛して欲しい、愛が足りないと口に出している人は、単に愛が足りないという現象を広げているに過ぎません。そういう状況において愛されたい、愛して欲しいといくら願い出たところで、それを満たすことはできません。自分でそれに気付き、自分で自分を愛さない限り、その人の心には愛は入っていきません。
愛を口に出すことは優しいでしょう。愛は素晴らしい、愛は尊い、愛がすべて。そしてまたそれは真実であり、皆さん方を支えているのは神の愛、すべてがあるからです。神の愛があればこそ皆さん方は体験し、学び、成長することができます。愛が足りないと思っている人は、自分がいかに神から愛されているのか、いかにこの地球から愛されているのかが、まだ分かっていない意識と言えるでしょう。神が皆さん方を愛しているからこそ、皆さん方は存在し、体験することができるのです。
イエスが説いた愛は、皆さん方にもまだ通用します。決して古い概念ではありません。イエスキリストが本当に皆さん方に残したかったのは、愛するということの本質であり、なぜ愛するのか、なぜ愛さねばならないのか。その本質をどうしても理解していただきたいという思いがありました。愛してあげるから代わりに何かしてもらう。こういう執着的な愛はイエスの愛ではなく、神の愛でもありません。神の愛は、ただその人が体験し、成長できるように、その人を許してあげることであり、それ故にその人の自由意志が働き、自分の思いに従って現実を創り上げていきます。
イエスキリストは、地位、名誉ある者に厳しく接していきました。地位、名誉ある者は、我が身の地位の高さを吹聴し、人々をコントロールしようとしていました。それは、他の人にとって耐え難い波動であり、許すことができませんでした。他の自由意志を犯すものは愛ではありません。いかなる理由があろうとも自由意志を犯してはいけないのです。欲望に駆られた者、執着に駆られた者、では彼らの欲望をそのままにしておくのか。多くの人がそこで疑問に思うでしょう。自分の欲や執着に駆られた人、彼らを叱責してはいけないのか、野放しにしておくのか。
彼らは皆さん方に何を為したでしょう。欲深き者は、自分の利益を自分のものだけにし、さらに可能性のある他の利益を自分のものにしようとします。自分が手に入るものは次々と自分のものにし、一度自分の手にしたら、二度と他のものに与えないという現象を創っていきます。彼らは自由意志で行動し、神の許しの元で行動している。皆さん方から見れば、それが理解できず、神を呪うかもしれません。でも実際にはそういう現象を見て、皆さん方がどういう波動を出しているのか。どういう思いを出すのか。そういう風にして自分の利益が膨らむのであれば、自分も真似してみたい、自分ももっと別のやり方で儲けることができる。あるいは、そんな卑怯なことはやっちゃいけない、ずるい、いろんな波動を出すでしょう。その時自分の心にどういう波動が起こっているのか。一人ひとりがそれを見ていく必要があります。
自分の心の中にその人を否定する思い、許せない思いが出てきたとき、それはやはり神のものではなく、自分のエゴになります。いくら愛のない行動だからといって、宇宙の法則に反しているからといって、その人を否定したり、責めることはできないのです。何故ならば、自分の心に同じ波動があるからそういう現象が起こされるのであり、もし自分の心にそういう波動がなければ、現象は起こらないのです。
自分の目の前にそういう人が現れてきて、他人をコントロールしている、思う存分財産を手にしている。そういう現象を見たならば、自分の心にも相通ずる心があるのです。いつか機会があれば自分も丸儲けしてみたい、多くの財産を手にしたい、なるべく楽して富を手にしたい、同じ波動を持っているのです。そういう波動がある限り誰かが現象を起こす必要があります。もしそういう現象をなくしたければ、自分の心からその波動をなくす必要があるのです。自分の心にそういう波動が一切なくなれば、自分の目の前にそういう現象は起こることはありません。
では、イエスはそういう人々に対し厳しく接したということは、イエスもそういう波動を持っていたのか。そういう風に言う人もいるでしょう。イエスはそういう波動は超越しており、必ずしも同じ波動で接した訳ではありません。むしろイエスはそういう人々と接するために、わざわざその波動を集合意識から持ってきて、自分の心の中に現象化させ、そういう人々とわざと接することができたという体験を繰り返してきました。本来は、そういう私利私欲に陥っている人々と出会う必要はないにも関わらず、多くの人々を目覚めさせ、解放させるためにあえてそのエネルギーを集合意識から持ってきて、同じ波動を創り、その人々に出会う機会を創り、体験を重ねていったのです。イエスが私利私欲に陥っていたわけではありません。
これは皆さんの場合でも起こることがあります。実際には自分には波動がなくても魂が創り出し、集合意識から許可を得てその体験のエネルギーを持ってきて、皆さん方に流す場合があります。したがって、そういう場合には必ずしも自分固有の波動ではなく、集合意識のレベルでその波動を持っており、その波動を使って体験をしているという現象が起こります。確かにその時には、トラブルを起こしたり、不快な現象が起こった時、自分にはないはずのエネルギーで現象化が進むという場合があります。
皆さん方から見たら、あまり楽しくなく、不要な体験のように思えるかもしれません。集合意識から見ればそういう体験によってエネルギーが放出され、解放され、少しでも光に近づいていきます。その奉仕の作業を行なうためにわざわざそういう現象を創り、自分が体験し、エネルギーを処理していくという現実が創られているのです。
イエスキリストが多くの人々の前で説き、癒しを行い、新たなる生き方を教えていきました。でもそのほとんどは周りの者に理解されず、解釈されないまま、ただ流れていきました。改めてイエスが本当に何を為したかったのか、皆さん方に本当に理解してもらいたいことが何であったのか。それを是非とも、理解していただきたいと願っております。
イエスキリストとして創られたこのエネルギー。日本にもあちこちで動き出し、人々に影響を与えようとしております。こういう素晴らしい現象が創られ、地球上のあちこちでイエスを望む声があるとき、本当のイエスは何を行なうでしょう。どうやって皆さん方と接していくでしょう。本当に貧しい人々や、身寄りのない子供たちのために一生懸命プレゼントを送ったり、愛を送って、イエスの愛を広めようとしている人々がおります。身寄りのない人や両親のない子供たちにできるだけの愛を注ごうとしている人々がおります。
イエスが本当に愛した老人や病の人々はどうでしょう。ごくわずかの人々が彼らにも愛を与え、光を与えております。でもまだまだ多くの人々がそこには意識を向けてはおりません。可愛い小さな子供にはいくらでも手を差し伸べ、可愛い、可愛いといって愛を流すことはできます。しかしもう人生の大半を経験して、孤独で病に陥っている年老いた人々に対し、日本人がいかに愛が送られていないか。子供だけを愛し、老人を愛さないというのは真実の愛ではありません。結局は都合の良いものを愛する。手っ取り早く、楽しく、感謝されるものに愛を送る。これはイエスの愛ではありません。
今、この日本において、本当のイエスの愛がどれだけ浸透しているか。喜んでもらえるから愛する、喜んでもらえるからプレゼントを贈る。これはイエスの愛ではないのです。したがって、多くの人々が楽しく、プレゼントを交換する姿を見たところでイエスキリストは必ずしも自分の愛が広がっているとは思っていません。では無意味かというと、そうとも思っていません。自分の善意を示そう、人々のために役立とう、こういう思いそのものは否定できず、またそれによって見知らぬ人と繋がったり、多くの人々に意識が広がることはとても良いことです。でもその人がそれを受け取ってくれて、感謝してくれたり、喜んでくれるから、愛する、愛を送るというのは本当の愛ではありません。
もし皆さん方の中で本当のイエスのエネルギーを感じたい、本当にイエスの言葉を聞きたいと思うのであれば、皆さん方が少しでもイエスの波動に近づく必要があります。見返りを要求しない愛、老人や病人を徹底的にいたわるという愛、そういう波動が必要なのです。ただ単にイエスに現れて欲しい、イエスの愛が欲しいと思ったところでそれだけでは中々イエスはやってこれません。今、自分の心の中に見知らぬ老人や病人を愛する波動がどこまであるか、ほんのわずかでもそれを見つけた人は、その波動を大きく大きく広げ、地球上に至るところにいる老人や病人に自分の愛が届くような意識を持ってみてください。
皆さん方が身に付ける愛が何であるのか。今、老人や病人を愛する愛についての話があり、その波動で私を引っ張ってきました。私も肉体を持っている頃は老人と話をし、病を持つ人々と接し、彼らの心を癒していきました。多くのものが貧しく、心の貧しさを何とか救って欲しいという思いで、必死で生きておりました。彼らの心を癒すためには、彼らの心の不安を取り払う必要があり、彼らの不安の原因となっている恐れ、生きることそのものに対する恐れを取り除くことが中心になっておりました。
今の皆さん方は生きることに対して恐れはそれ程感じられず、自分自身の存在に関して、ただ疑問があり、どうして良いのか分からないという人がたくさんおります。今の皆さん方に対して私ができる愛というのは、皆さん方が、自分が何者でありどこに向かうのか、それがはっきりと分かる証を与えることのように感じられます。
皆さん方が、どこに向かい何であるのか。皆さん方は、その壮大なるテーマに向かい、自分自身の力でそれを見つけねばなりません。私たちが皆さん方に与える愛は、それに気づくための現象を創ったり、それに気づかせる場を創ることにあります。日常の中で自分が何でありどこに向かうのかが、分かりやすいような現実を創っていきます。人々との会話の中でヒントを見出し、何かが分かる、ちょっとした直観やインスピレーションで自分のことが分かっていく、そう仕組んでいくのが私たちの愛になります。
したがって、その愛は皆さん方には愛とは感じられず、キリストの思いとは感じられないでしょう。それで私たちは何も問題はありません。皆さん方がそれによって自分を理解し、自分の進むべき道が分かれば十分だからです。皆さん方がそういう経験を通して自分を理解し、自分の道が分かったとき、自分がどう人と接し、人を愛するかが分かっていきます。人々に対しての愛が何であるのか。人々とどう接していくのか、その本質がだんだん見えてきます。そしてそれを具現化していく。それで初めて愛を具現化する人間といえるでしょう。
皆さん方にとって愛は、身近でありながらも具現化するのが難しい波動といえます。私たちから見れば、多くの人がすでにその準備ができており、愛を具現化する状況にあります。でもそれが中々現実の面で発揮されず、うまくいかないのは、執着と感情が邪魔をしていくからです。愛すべき対象の人との間の感情や執着がいろんな思いを創り出し、その人の行動をおかしくさせていきます。
感情や執着、これがどういう影響を与えていくのか。真実から見えなくさせていきます。本当の姿を見えなくさせるのです。したがってその人をそのまま受け入れるには、感情や執着を手放し、そのままで相手を見なければなりません。その人をそのまま受け入れる。執着と感情に左右されずにそのまま受け入れていく。これがとても大切なのです。その人をそのまま受け入れる、年寄りであろうが、病人であろうが同じように接して、愛を持って接していく。これが皆さん方がこれから身につける愛の波動です。
執着を持った愛を身につけている限り人間関係において争いは絶えることがありません。執着や感情を入れない愛の実践を行なったとき、本当にそれで良いのかどうか疑問がある人があるかもしれません。でも私たちは、はっきりと言います。そういう素晴らしい愛を実践することが、皆さん方にとっての一番必要なものであり、それのみが真実の愛を広げていくのです。
今のこの地球においての人間関係を変えるのはこの愛なのです。執着や感情を取り除き、その人をそのまま受け入れ、そのまま接していく、これをただ行うだけで人間社会がどんどん変わっていきます。皆さん方がほとんど不可能と思っている日本の流れや地球の流れをも根本から変えることができます。とても大きな力を持っているのです。これからの社会を変えるのはこの愛をいかに皆さん方が実践し、具現化していくか、すべてはそれにかかっていきます。決して否定せず、疑問を持たず、そのまま受け入れて行動に移すようにしていってください。
キリスト意識の波動が皆さん方に繋がり、具現化しやすくさせようとしております。自分のハートでキリスト意識を感じ、素直に表現できるように、具現化できるように定着させてください。多くの光の仲間も協力し、皆さん方の真実の愛が広がっていくように手伝っていきます。自分の力を信じ、愛を信じ、多くの人々に広げていくようにしていってください。それでは少し休憩を取ります。ありがとうございました。
Sachikoさんの今の愛の波動について私たちから見たとき、あなた自身の愛はあなたを愛する愛がだんだん輝いてきており、表向きは自分を否定しているように見えながらも、それは自分を愛するが故の波動になっております。自分をより美しく、より輝きを持った存在に高めようとする思いで、ついまだできない自分を見つけたり、まだ十分に達していない自分に意識が向いて自分を否定してしまう場合があります。でもそれは自分を愛するが故であり、自分を成長させようとしている自分の表現であり、それをも許す愛が必要になってくるでしょう。自分のまだできていないところや、不十分なところはそれ自体に意味があり、それは教えるとか見せるとかいうレベルの問題ではありません。自分がまだできていないところと思っているのは、本当にそのエネルギーを今必要としており、それを克服する強さが必要であり、それを堪え忍ぶエネルギー、克服する勇気が必要なのです。したがってただそれが分かったからといって、それで止まらず、満足するのではなく、克服する強さ、乗り越える力強さを身に付けていってください。
Michikoさんの今の愛においては、真実の愛と自分が理解している愛、日常自分が実践できる愛、それぞれの愛において、まだ十分な連携が取られておらず、真実の愛と自分の愛、理想的な愛、これらが統合されておりません。しかし頭の中では自分は純粋に光の存在となって、ただあるがままの愛を表現しようと思っております。思っていることと実際に行動で出てくる愛は別であるために、頭で理解している愛と、実践できる愛が伴っておりません。理解していることと行動との間に一つの大きな違いがあり、うまく連携できていない状態になっております。思っていることをスムーズに自然に行動に移せる、そのまま表現できる、それを具現化するためには、納得できないと行動できないとか、分かっていないと行動できないという波動を取り払う必要があります。行動についていちいち正当化する言葉を用意したり、それを認めるような準備をする必要はありません。愛はただそのまま具現化する。理由や理屈なしにただ具現化する。そこに真実の愛を見つけていってください。
Aoiさんに関しては、あなた自身が身に付けてきた愛、多くの人々に実践し、養い、今、心の中に培っている愛、この愛はあなたにとってエネルギーを使い、経験を要し時間を掛けて十分に育ててきました。あなたにとって大変な労力を使い、時間を掛け、自分を犠牲にしながら愛を身に付けてきました。あなたがこうやって身に付けてきた愛は、あなたにとって強くさせ、成長させ、人々との接し方において新たな切り口を見せてきました。この愛はまだあなたに成長の機会を与えております。これで完結したわけではなく、すべてを理解したわけでもありません。自分がこれで大丈夫だと思うもの、これで分かったと思うときが一番落とし穴の時であり、その時に愛を見失ってしまいます。愛はこうだ、こういう時にはこうすれば良い、それで分かったと思った時にこそ自分の足元がすくわれてしまいます。その時その時に一番必要なものを、その時に行動する。その時その時で愛の具現化の仕方が毎回異なる、そういう意識が本当に必要であり、これが愛だという風に表現できるものではないのです。今、相手が何を望んでいるのか、今どう接したら良いのか、一瞬一瞬その時その時に最適な愛が違います。それをいかに自分で見抜き具現化していくか、その能力を養うようにしていってください。
Minoruさんの愛に関しては、愛は何であるのか。自分には愛があるのかどうか。自分の愛は人に通ずるのかどうか。いろんな思いを持ってきました。あなたの愛は、他の人の愛とは少し違い、感情的な愛や執着的な愛はほとんど入っておりません。ただ愛された経験もそれほどないために感情的な愛が自分で理解しにくいという面もあります。愛されること、そこに執着がない反面、逆に執着的な愛に依存することもありません。それがあなたの強さでもあり、弱さでもあります。多くの人に宇宙的な愛で接することがあなたにはできるかもしれません。でもそれゆえに多くの人の求めている感情的な愛が理解できないのかもしれません。この諸刃の刃の中であなたが愛をどう身につけ、理解していくか。人々の求めている愛、あなたが実践できる愛、そこの食い違いの中でいろんな学びをしていくでしょう。まだこれからのいろんな時間の中で愛について学びを深めていってください。
Sachikaさんの愛について見たとき、あなたが理解し、身につけ実践している愛、それは美しく輝きを持ち、新鮮な感じで人々に印象を与えていくでしょう。今その愛についての価値観が大きく変わり、自分がこれまで理解してきた愛の波動がだんだん形を変えようとしてきております。自分が信じていた愛が本当の愛だったのか。自分はこれからどういう愛を身につけていくのか。意識的な混乱が起こっております。あなたがこれから理解し、身につけるべき愛は、あなたがこれまで理解してきた愛とは確かに異なっていきます。そして今まで自分が身につけたことのない愛の波動を身につけ、それで人間関係を創り上げることになるでしょう。あなたにとってあなたの成長を促す愛があります。それは一見あなたに厳しく、あなたに辛い経験をさせるかもしれません。でもあなたはそれ故に今までの愛とは違う愛を理解し、必要性を理解することができるでしょう。愛の波動のいろんな側面に触れ、これまでとは違う愛、そして自分を成長させる愛に意識が向いていきます。これからの経験において愛という観点でいろんなものを受け入れるようにしていってください。
Sayokoさんの愛は、あなたにとって愛は人間関係においての潤滑油であり、繋ぐものであり、当たり前のエネルギーとして理解されていました。したがってあえて奉仕をするとか、愛をあげるという感覚も持っていませんでした。光の仲間として何故愛が必要なのか。光の仲間として行動する時、光を広げ、人々の意識を成長させ、人々に神としてのエネルギーを発動させていく働きがあります。あなたも光の仲間として行動している以上、人々の覚醒をもたらし、神として顕現する機会を与えていく必要があります。そのためにはその人の神の部分を照らし、その人の持てる能力を発揮させる機会を創っていく必要があります。人々のそれぞれの持てる能力を表に出さしていく、具現化させるように仕向けていく、あなたはそういう機会を創るのが特徴的であり、人々の持っている能力をうまく引き出す場を創ることができます。あなたにとってはそれがあなたの表現の一つであり、それ自身があなたの愛の波動から起こる現象といえます。したがってあなたは人々それぞれに対し、その人の持てる能力を認めていく、その人の素晴らしさを認めていく、そういう意識が必要になります。そう思うことによってあなたからそれを生かすエネルギーが放出され、それが相手に刺激を与え相手の素晴らしさが目覚めていきます。これがあなたにとっての愛の表現であり、あなた自身はそれをただ具現化していくことで周りの人がどんどん目覚めていきます。それ故執着的な愛や感情的な愛はあまり自分に意味がなく、単なる潤滑油、単なる人間関係という程度でしか理解されておりません。あなにとっての本当の愛を顕現させる意識を持って人々と接するようにしていってください。
Yoshieさんの愛は、自分には本当に愛はあるのかどうか。私はこんなに愛があまり感じられないのに人を愛することができるのかどうか。いろんな思いがあります。あなたの持っている愛は、人々に新しい意識を吹きかけ、その人の次の成長段階に導く波動をもたらすことができます。それは人々にとっては現状を否定されたり、今の自分を無視されたり感じるかもしれません。でもあなたは実際には次のステップへ無理矢理に引き上げたり、導いている役割をしているだけであり、その人の今のすべてを否定しているわけではありません。これもあなたから自然に出てくる愛の波動であり、その人を常に一段階上に引き上げようとする波動から起こされていきます。あなた自身の本来の愛の波動はそういう働きを持っており、ただあなたがそれを意識していないために愛として理解されていないだけでした。したがってこれからはあなたの回りにやってくる人は常に一段階上がるのを望んでいるために、あなたのところにやってきてあなたから波動をもらい、高くなっていく、そのためにあなたの周りにやってきている、常にそれを意識しておいてください。そしてあなたは自然に接するだけで必要な波動があなたから出ていき、相手の人に気付きや目覚めをもたらしていきます。これがあなたの表現できる愛であり、それだけで十分に愛のある生活をしていると理解をしておいてください。
Izumiさんの愛は、あなたの愛は宇宙レベルでも十分に通用する高次元の愛であり、肉体人間に限定せず、多くのスピリチュアルな世界においてもあなたの波動が感じられております。これだけの波動を身につけるためにあなたはいろんな人間を愛し、いろんな世代を愛し、いろんな困った人々を愛してきました。あなたがそれらの愛を身につけるために、自分の身を犠牲にし、時間を犠牲にし、人々のために尽くしてきました。あなたにとって失われた時間や場は多かったでしょう。でもそれによって身についたあなたの愛はとても素晴らしく、それはお金や時間では買うことのできないとても素晴らしい愛です。この愛をこれからどう生かしていくか。あなたの体でどう具現化させていくか。いろんな思いがあるでしょう。あなたはもうすべて宇宙に任せており、神々の心の中であなたが動くように創られております。あなたのその愛が本当に必要な時に、必要な人に流れるように現実が流れていきます。したがってあなたはただ単に自分の目の前にいる人、隣にいる人をそのままただ愛し、自分の経験を語るだけで十分となっています。これからの生活のすべてにおいてただ与えられた環境の中で自分の愛をフルに発揮していってください。
Shigemiさんの愛は、あなた自身が理解している愛と、多くの人々が理解している愛の波動の違いがあり、あなたの愛が他の人には愛と感じられず、他の人の愛があなたには愛と感じられない違いがあります。これはあなたが悪いとか、他の人が間違っているとかいうレベルではなく、もっと本質的な違いになっております。それによってそもそも愛とは何であるのか。何が愛なのか。そういったところに意識を向け、人々と一緒に話し合う余地があります。あなたにとっての愛は他の人にとって愛ではないでしょう。また、他の人にとっての愛は、あなたにとっての愛でもないでしょう。私たちから見た場合には、まだまだどちらも真実の愛ではなく、最終的な愛ではありません。したがってお互いにそこから何かを学び、さらに発展させていく必要があります。今の段階でどちらがどうとかいってもそれ自体には何の意味はなく、本当に多くの人々と分かち合い、生かし合い、成長し合うためにはどういう波動が必要なのか。お互い認め合い、お互いが成長するにはどういう接し方が必要なのか、常にそういう意識で自分の愛を考えていく必要があります。あなたにとっての愛がさらに高次元の本当の愛に変容していくために、今自分は何をなすべきか、まずそういう意識が必要となります。そういう意識を持たずに今の自分の愛で十分、自分のやり方で十分と思っているとそのまま自分自身の成長がなくなり、愛も変わらなくなっていきます。常に自分を高めようとする意識、愛を変容させようとする意識をまず持続させるようにしておいてください。
Yasuhiroさんの愛は、自分がこれまで身につけ、いろんな経験を通して理解し、養ってきた愛、自分なりに満足し、自分の考えで十分と思ってきた愛があります。そしてその愛は、自分の人間関係を通して見たとき、本当にそれが自分の理想とする愛であったかどうか。もし自分の考えていた愛が本当の愛であるならば、今の自分の人間関係はそれを裏付けできるのかどうか。改めて自分の愛がまだまだイエスから見たとき、人間的な愛であり、執着的な愛であったと気が付くことでしょう。でもそれがあなたを否定するわけではなく、あくまでもそれをバネにしてイエスが実践した愛に近づけていく流れがあります。そう見たとき、今自分が身につけるべき波動が何であるのか。イエスの愛に近づけるためにはあと何が必要なのか。おしきせの愛ではなく、見せかけの愛でもなく、心からまずず人々と接することです。自分を素直に表現し、相手の真実の部分を素直に認めていく、まず素直さが根本に必要になります。自分を飾らず、うわべだけを見せず良くしようとせずに、そのままの自分をそのまま表現し、相手の素の部分をそのまま認めていく。これが出発点になります。これを土台にして自分の愛を成長させていく。まずそれを出発点にしていってください。
Atsukoさんの愛の波動は、あなたが身につけ、養い、培ってきた愛の波動は、多くの人間との接触の中では具現化する機会が中々現れてこず、ひそかに自分の心の中に止まっておりました。このあなたの愛は他の人に流れ出るのを待っております。心の中に止まっているのではなく、多くの人々の中で動き出すのを待っております。積極的に人々と接していく、自分からどんどん波動を出していく。そうすることによってあなたの愛は他の人々に広がっていきます。自分だけのものに閉じ込めておかず、積極的に多くの人々と交わることによって自分の愛が広がっていく。そういう意識をしっかりと理解して、愛を広げるようにしていってください。
さて今日は愛についていろんな観点から話がなされました。愛に関してはとても難しく、また決して最終段階にすぐ来るということもありません。どの人間も学びの段階であり、まだまだ途中経過の状態にあります。したがってそれだけで他人を評価したり、自分を評価する意味はありません。あくまでも学びの最中であり、...(テープ反転)...現実の中で養っていってください。
今年の最後が愛という波動のテーマで終えることになりました。今までの流れとは少し違い、違和感があると思っているかもしれません。でも愛に関しては永遠のテーマであり、いつまでもつきまとうテーマでもあります。神との一体化のワークも楽しいでしょう。神と協力し合って波動を変えることも喜びになるでしょう。でもやはり神から見たとき、皆さん方の心の中の愛が育ち、広がり、他の人々の中に入り込んでいくことがまた大きな喜びになっております。愛の育成に関しても決して疎かにすることなく、これからも常に養い続けるようにしていってください。それではここまでにいたします。ありがとうございました。