イエスが生まれる前からユダヤ教ではメシア思想のようなものがありました。イエスが生まれたときに、イエスがメシアであるかどうか、いろんな論争が繰り広げられておりました。イエスが死んだ後、さらにイエスが復活し、過ちを犯した人間をすべて許し、やっと真の平和が地球に訪れる。これがそれ以降のキリスト教に受け継がれております。このキリスト教の考えは、イエスを神格化することに意味があるのではなく、一人ひとりが神に繋がり、神の思いを具現化することに重きが置かれておりました。
一人ひとりが神と直接繋がる。そのために神と契約をする。それは神としっかりとつながっているという証を示すものでした。一人ひとりが神として生きる。それは真実の言葉を語り、正しい仕事をし、人々と楽しく分かち合い、地球に繁栄をもたらすために労働する。これが神との間の約束でした。しかし神は契約した人間を下に見たり、自由に操作するということはまったく考えておりませんでした。神と契約した人間は神であり、神の思いをただ肉体を纏った人間が役割を演じていく。そういう契約です。
本来のキリストの考えは、神の思いを実現するために人間が地上で役割を演ずる。それを神と約束することにより、しっかりと神のエネルギーを地上に残していく。これが本来のキリスト教の考えでした。しかし人間はそれを都合のよいように解釈し、王である者はいかに民衆を支配できるか、力のある者はいかにその力を利用して人間を操れるか、そういう道具としてキリスト教が使われるようになっていきました。もうそのころからキリスト教は神の思いから離れ、人間が作り上げた宗教という枠の中で独自に動き始めていきました。
今となっては、宇宙に存在するキリスト意識と人間が作り上げたキリスト教は何の関係もありません。まったく繋がりをつくっておりません。いくら人間がイエスを拝み、キリストを求めても、人間の造り上げたイエスやキリストがやってくるだけであり、真の宇宙のイエスやキリストが現れることはできません。まったく繋がっていないのです。イエスを求めたとき、十字架を背負い、磔刑にされたイエスばかりが現れてきます。それは人間が造り上げたイエスです。
私たちの仲間にいるイエスはもう人間的なエネルギーを手放し、自らのエネルギーを地球にもたらすためにあと何ができるか、真のキリスト意識を地球にもたらすためにあとどういう役割を演ずることができるか、いつもそれを考えております。人間は自分たちの都合の良いときにしか、イエスを求めません。自分たちの都合の良いようにイエスを利用します。そこに現れてくるイエスは人間によって造られたイエスのエネルギーです。真実のイエスではありません。真実のイエスは人間の欲求を助長させるような働きはいっさいしません。むしろそういう人間的なエネルギーをいかに手放すか、早くそういう執着からいかに抜け出てくるか。それをもたらす方向へと導いていきます。
キリスト意識、これが地球にもたらされたとき、確かに多くの地球の人間は混乱の中にあり、悲しみの中にあり、救いを求めておりました。食べるものがない、自由がない、生活できない。多くのものがそういう中で生活しておりました。そういう救いを求めるエネルギーがキリスト意識を呼んできました。しかしキリスト意識はそういう苦悩を避けるために現れたのではありません。一人ひとりの苦悩の原因がどこにあるのか。何故、そういう苦しみを味わうことになったのか。それを理解できるように現象をつくっていきます。
他人の支配の中にあるもの、他人を支配しようと考えたことがなかったかどうか。自由がないと嘆く者、他人の自由を奪おうとしなかったか。それぞれの苦悩の原因がどこからやってきたのか。それを知らせるためにキリスト意識は存在します。したがってそれを理解しようとする気持ちのないものは、キリスト意識と繋がることはできません。したがってその苦悩から抜け出ることもできません。
本来、日本においてもキリスト意識は現れております。しかしそれは西洋で伝えられているキリスト意識とは現れがまったく違います。西洋におけるキリスト意識は誰かが救ってくれる。素晴らしいヒーロー、スーパーマンのようなものがやってきて皆を救ってくれる。自分はそのヒーローを呼ぶために一生懸命、頑張る。願う。お祈りをする。これが西洋における、キリストを呼ぶ流れになっております。
日本においては、困っていたとき、皆で協力して助け合う、皆で地道に改善していく、子供であろうと、女性であろうと、皆で同じように協力し合う、というエネルギーがありました。むしろ日本においては一人の素晴らしい人間がすべてを救うという考えはほとんどありませんでした。西洋的なエネルギーが日本に入るに従い、ヒーロー、救世主のようなエネルギーがだんだん日本に現れてきました。そして皆で助け合う、皆で協力するというエネルギーがだんだん弱くなり、誰か力のある者ひとりに任せてしまう、権限のあるものだけにやらせてしまう、という方向へと変わっていきました。
日本におけるキリスト意識は皆で協力する、皆で頑張る、これが日本に一番適したキリスト意識です。それが好ましい働きをしないときには、サボっている人を皆でいじめてしまう、手抜きしている人を非難する、という方向へ動くこともありました。基本的に皆と一緒でないものを排除する、皆と同じでないものを否定するというエネルギーがあったからです。そういうエネルギーとキリスト意識のエネルギーが組み合わさり、非常に特殊な形のキリスト意識が造られていきました。純粋に助け合うのではなく、手を抜いている者、サボっている者をいじめる。許さない。そういったものも同時に造られてしまったのです。
日本におけるこういうキリスト意識の現れは、その影響力がどんどん強くなり、さらにヒーローのようなものを望むエネルギーと一緒になり、とても不思議なエネルギーを造り出しております。誰かひとりにまかせて自分は無関心、というキリスト意識と皆で成し遂げるというエネルギー、サボっているものや手を抜いているものを排除するというエネルギー、こういうエネルギーが複雑に絡み合って今の日本のキリスト意識を構成しております。
一人ひとりの心の中に、自分のキリスト意識はどういう現れをしているのか。自分はどういうキリスト意識を具現化できるのか。それを探り出してみてください。誰か一人に任せようとするエネルギーが強いのか、皆でやろうとするエネルギーが強いのか、誰かに任せるというとき自分が引き受けようとするエネルギーが強いのか、自分は何もしない方向に回るのが強いのか、皆でやるとき自分は一生懸命やっているのをイメージしているのか、あるいはサボっているものを見たとき自分はどういう行動をとっていくのか。自分の心の中のキリスト意識を探し出してください。
日本におけるキリスト意識がこれからどう展開していくのか。今の流れで行くと、ほとんどの人は無関心、無責任という方向へと流れていきます。自分が何かを引き受ける。自分から率先して肉体を提供して役割を演ずる。こういう波動がどんどん弱くなっています。できればなるべくほかの人に任せてしまう。ほかの人にやらせて自分は楽をする。そういうエネルギーがどんどん強くなっております。皆で協力し合う。この思いはまだ強くあります。でも皆がサボると自分もサボる。皆が休むと自分も休む。そういうところが特に強く、皆で一丸となって進む。皆で完成させるというエネルギーはそんなに強くありません。
皆で集まれば集まるほど、自分の力が弱くなります。一生懸命、最後まで頑張る。成し遂げるというエネルギーが弱くなっていくのです。これは日本人特有の傾向といえます。数が多ければ多いほど、手を抜く。自分が目立たなくなれば、分からないようにごまかす。こういう現れです。キリスト意識は常に怠慢さや甘さ、いい加減さと共に成長してきたのです。本来のキリスト意識は妥協を許しません。本当に最後まで成し遂げるというエネルギーがあります。一度、働き出したものはそれが完全に終わるまでは、それを完了することはできません。それがキリスト意識です。途中で止めるとか、諦めるということはキリスト意識には存在しません。やり始めたら、それを完全に終えるまでは戻ってくることができないのです。
キリスト意識は最後までそれを完成させるために、いろんな手を尽くして実現させようとします。自分の持てる能力をフルに使う。与えられた条件をすべて使う。自分の回りの環境をすべて利用する。それによって当初の目的を達成しようとします。達成しない限り、戻ってこれないのです。日本において、キリスト意識を定着させるためには、最後まで成し遂げるということを何度も経験する必要があります。途中で投げ出す、諦める、こういう体験ばかりをしている人は、キリスト意識が自分のものにはなりません。
どんなに時間がかかっても、どんなに回りくどくても、面倒臭くても、最後までとにかくやってみる。とにかく完成させてみる。これによってキリスト意識が造られていきます。一人ひとりの心の中で、今まで自分が何かを為そうとして最後まで完成できたものがどれだけあるか。途中で諦めてそのままにしておいたものがどれだけあるか。キリスト意識は意思の強さが必要です。意思の弱い者、自分に甘い者はキリスト意識を身に着けることが難しいでしょう。
自分に厳しく、他人に優しく、人々には喜びを。キリスト意識はそういう意味において、とても厳しいエネルギーです。イエスはその厳しさの中から現れてきました。イエスはこの波動を地球にもたらそうとして自らの肉体を提供しました。でもそれによって何が地球に残ったでしょう。イエスにすべてを任せ、自分たちは甘い生活をしている。イエスがすべてを贖ってくれたために、自分たちはただお祈りを、感謝を捧げる。それでイエスが本当に満足するでしょうか。
イエスはこのキリスト意識を広げようとして、肉体を提供しました。つまりキリスト意識が地球に定着しない限り、イエスの役割は完了しないのです。彼はキリスト意識であるために、すべてを成し遂げない限り、戻ることはできません。地球上でキリスト意識が確実に定着する。イエスの所為にしたり、神の所為にして、自らがいい加減な態度をとるのではなく、一人ひとりがキリスト意識として行動する。それによって初めてイエスのキリストとしての役割が終了するのです。
一人ひとりの心の中にイエスの役割をもう終了させたいと思う者、自分ではなくほかの人に任せて自分は楽に生きたいと思う者... 私たちは今、とても難しい状況に遭遇しております。多くのクリスチャンがイエスの再来を信じているために、いつかの時点でこれを実現せねばなりません。しかし彼らが求めるイエスは、真のキリストではないのです。メシアにすべてを任せ、それによって自分が救われようと考えているからです。イエスはキリスト意識が完全に地球人の心に根づかない限り、役割を終えることはできません。しかし役割を為そうとすると、地球人が造り出したメシアというエネルギーでしか、現れることはできないのです。何という皮肉でしょう。
私たちが今、一番望んでいることは、皆さん方が確実にキリスト意識を地球にもたらしていただければ、イエスの役割が完了するのです。メシアとして現れる必要はなく、イエスとして現れなくてもイエスの役割が完了するのです。一人ひとりの心の中に、キリスト意識を定着させようと真剣に考えているものがどれだけいるのか。皆さん方がそれを望まないからといって、私たちは皆さん方を責めるつもりはいっさいありません。皆さん方には必ずしもそれを成し遂げる責任はありません。ただ今のこの地球の人間の心を見たときに、キリスト意識を正しく受け取り、それを定着できる人間は限られているのです。皆さん方はその候補の一人として位置付けられております。
真のキリスト意識、イエス、メシア、そういう世界の中で、皆さん方がどういう役割を演じていくのか。私たち自身、とても興味を持っております。一人ひとりの心にいろんな思いがあります。自分が宣言した場合に、どういう役割がやってくるんだろう。生活にどう影響が出てくるんだろう。そう考えておられるようです。キリスト意識を具現化するというのは、先ほど話したように、誰かに任せてしまうとか、自分は傍観者に回るとかいうのではなく、自らが率先して行動するということです。また日本人特有の皆で楽しくやる。サボっている人や遅れている人がいても、責めることなく楽しくやっていく。これを具現化することです。
これでも十分にキリスト意識は広がっていきます。そしてそれが確実に定着されれば、イエスの役割は完了します。一人ひとりはそういうできる範囲内でキリスト意識を具現化すれば、それで十分なのです。一人ひとり自分が考えていること、ほかの人と話してみたいこと、いろいろあるでしょう。少し時間を取りますので、皆さん方の間で少し議論をしてみてください。それでは休憩をとります。ありがとうございました。
本来、キリスト意識はイエスを助けようとするときにその人の心に現れ、地球に残る予定でした。イエスを救おうとする者、イエスを助けようとする者が一人でもいれば、地球にキリスト意識が残る予定でした。しかし誰一人、イエスを救おうとしませんでした。それゆえにキリスト意識が地球には定着しませんでした。イエスが地球を去るとき、自らのキリスト意識がどこに残るのか。どういう形でキリスト意識が広がっていくのか。ずっと考えておりました。
人々の心で愛することの大切さ、真実を語ることの大切さを感じた者はたくさんいます。隣人を許す。罪人を許す。隣人愛と許しは広がっていきました。しかし真のキリスト意識は人々の心には残りませんでした。今、新たな時代が近づいてきて、また地球人にテストが行なわれるでしょう。いくらイエスの再来を目にしたとしても、自らの心がキリスト意識を受け取ることができるかどうか。イエスから真のキリスト意識を手にすることができるかどうか。キリスト意識は本当に自分から行動し、尽くし、全うした者に宿るエネルギーです。
ごまかす癖のある者、いい加減な者、無責任な者にはキリスト意識は定着しません。イエスは真実を語り、真実の行動をし、キリスト意識を皆に見せました。自らの言葉を貫くために、決して嘘は言いませんでした。人々からののしられ、非難され、暴力を受けても、イエスは真実だけを語りました。彼はキリストだからです。
皆さん方がキリスト意識を受け取り、それを具現化するには、常に真実を語り、責任逃れすることなく、正々堂々と生きることが必要です。心の強さが必要となるでしょう。己に厳しい気持ちが必要となるでしょう。キリスト意識は一人ひとりの心の中にやすらぎを与えることができます。自分が真実を語る限り、やすらぎが得られます。正しく生きている限り、やすらぎが得られます。自分の心を欺いたとき、平安が乱れ、心に葛藤が起こります。キリスト意識を具現化するには、葛藤や不安は不要なものとなります。
キリスト意識を具現化させながら、喜びを持って生きる。これは可能です。真実を口にする限り、正直な者が集まってきます。お互いに真実で会話をする限り、喜びが得られます。不安や恐れをもたらす者がいないからです。キリスト意識を具現化する限り、喜びが得られます。一人ひとりが正直に生き、正しい言葉を発するたびに常にやすらぎが得られのです。キリスト意識を具現化していく。そのためには、常に自らに正直であり、正しく生きる。自分の心を偽らないこと。これが第一です。
キリスト意識として皆さん方と出会えたことをとても嬉しく思います。日本人には馴染みがなく、あまりイメージが湧いてこないかもしれません。先ほど話されたように、成し遂げる、自分から率先して進める、一生懸命やる、最後までやり通す、これはキリスト意識の現れです。一人ひとりがキリストとなって、具現化していく。今、自分に必要なキリスト意識のエネルギー... キリスト意識はいろんな側面をもたらして皆さん方と接します。一人ひとりと直接、出会って、キリスト意識を完全に手にしていただきたいと思っております。
ここにいるメンバーの中で、キリスト意識と何らかの繋がりをつくった者が、Atsko、Yukiko、Morio。もう直前まで来て、あとは本人の許可で繋がることができる者、Kenji、Yoshie、Sayoko。かなり意識的な変革と準備を重ねて繋がれる者、Minoru。ただし必ずしも繋がる必要のない者、Minoru。Yukikoはあえて繋がる努力をしなくても、自然に流れがそう進むために、ほとんど努力とか意識とかは必要ありません。本人の努力によってかなり洗練されたキリスト意識と繋がれる者、Morio。今の流れで十分に高度な波動にまで成長できる者、Kenji、Yoshie。自分のエネルギーに合わせてキリスト意識を自分のものに変えて自分なりの現れ方を発揮できる者、Atsuko、Sayoko。
自分のエネルギーをもっともっと理解し、自分のエネルギーをかなりコントロールできるようになった上でキリスト意識と組み合わせて巧妙な働きができるようになる者、Minoru、Kenji。本来の純粋なキリスト意識をそのままの形で表現できる者、Yukiko。人々の心にキリスト意識を伝達できる者、Yukiko、Morio、Sayoko。自らの大いなる宣言でキリスト意識を引っ張ることができる者、Yoshie、Sayoko。キリスト意識を身に着ける前にまず現実から意識を変える必要がある者、Minoru。自分の意識とは関係なしにキリスト意識を具現化する者、Yukiko、Kenji、Morio。
このわずか数分でもキリスト意識にどんどん繋がり、心の中にキリストを宿した者、Yukiko、Morio。自らに正直に素直に真実を語ることを約束し、キリストを具現化できる者、Atsuko、Kenji、Yukiko、Yoshie、Sayoko、Minoru、Morio。イエスの仲間が常に横にいて、肉体ある間、常にアドバイスが与えられる者、Atsuko、Kenji、Yukiko、Sayoko、Yoshie、Minoru、Morio。多くのイエスの仲間から常に厳しく導かれる者、Morio。イエスの名において、一人ひとりを肉体が朽ちるときまで、共に役割を演じていこう。
キリストという名前は、日本人にはなじみが薄く、好ましい言葉ではないかもしれない。あまり言葉にとらわれずに、自らの心の中に自分から率先してやるという気持ち、最後までやり遂げるという気持ち、徹底的に尽くすという気持ち、皆で仲良く協力し合って成し遂げるという気持ち、これをキリスト意識の現れと理解して、心の中に定着できるようにしていってほしい。
皆さんとともに永遠に学べることを喜びとしている。ありがとうございました。