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1999/7/31■土曜学習会から

生命の形は役割によって決まる

@生命進化の流れと形態は別

私たちは大いなる仲間のひとつのとして、今、地球で変化の手助けをしている集まりです。人間と動物についてのお話がありました。先ほどの話では、人間の進化と動物の進化についての説明がなされておりました。私たちは生命の進化について、別の観点からお話をいたします。

皆さん方が生命の進化という表現を聞いたときに、動物と人間を総称してお話をしていきます。しかし私たちは地球や植物、ほかの次元の生命、目に見えないもの、いろんなものを総称してとらえていきます。例えば、この地球で考えた場合、植物や小さな動物たちがかなりこの地球上で生命活動を維持しており、地球の維持のために頑張っております。そして彼らは自分たちの役割があり、役割を終えると生命活動を別のものに移していきます。

皆さん方は肉体というものを前提とし、肉体を終えるまでを生命という風に考えているように思われます。私たちは、肉体はあくまでもひとつの現れであり、肉体を終えたときにはまた次の肉体を造り、別の役割を演ずるという風に認識をしていきます。人間においても、今、皆さん方が身に着けている肉体は今の人間の役割のために創られた肉体です。これから人間の役割が変わり、地球との結び付きが変わってくると、別の肉体が必要になり、その別の肉体を使う生命が必要になります。

したがって肉体そのものはあくまでも生命の役割の現れにしか過ぎません。ほかの動物に関しても同じように、皆さん方が動物と思っていたものは、その本質的な生命の役割のあらわれとなっております。人間からみて、犬や猫がペットのように扱われ、可愛い、楽しいという感覚を味わうときに、犬や猫の本来の生命も喜びを感じていきます。犬や猫の本来の生命がそういう形であるかどうかは別となります。地球人の認識に合わせ、可愛い、楽しいと思われる姿を役割としてつくり、そこに生命のエネルギーを流しているに過ぎません。したがって動物が進化するというのは、人間に対する役割がどう進化していくか、どう変化していくか、それによって変わっていきます。

同じように、植物やほかの生命体にしても、進化するというのは地球に対しての役割がどう変わっていくか、地球が何を望んでいるか、それによって変わっていきます。生命体の進化という面で見た場合に、姿・形がどう変わるかというのはその時々の人間が何を望んでいるか、地球が何を求めているのか、それに応じて変わることを意味します。では生命の進化という面で見た場合、何をもって進化というのか。

人間はいうまでもなく、皆さん方が意識をどんどん拡大させ、常に神と共に存在し、この宇宙においてのいろんな秘密を自ら見つけ出して、喜びを分かち合うようになっていく。そういうところに向かって進むのを進化という風に呼んでも構いません。その時々の自分の姿がどうなっているのか。それは皆さん方がどの惑星で、どういう活動をしているのかによって変わってきます。あくまでも自分の役割が何であるのか、それによって姿・形が現れてくるのです。

生命そのものは必ずしもその姿・形と同じものではありません。例えば、Yさんの今の人間としての姿は、日本人の典型的な女性として現れております。でもそこの中に入っている大元のエネルギーはいろんな惑星で経験してきたエネルギーをモトにして、自分のいちばん適したものをいかにこの地球上で表現できるのか、自分がいちばん得意としている働きをいかに地球上で行うことができるか、常にそれを考えており、一瞬一瞬姿を変えて、肉体にいろんなエネルギーを送り届けております。

したがってあなたの本質的な生命の現れは、いかに常に自分が肉体に合わせて動けるかを考えており、たゆまない生命活動を続けております。いかにその肉体をうまく使って、自分の持てるものを発揮させていくか。今まで自分が身に着けてきたものをいかに肉体で表現できるか、いつもそれを考えており、またそれを使いこなそうとしております。したがってその生命の現れそのものは常に躍動し、前を見て、また自分を見て常に最高のものが表現できるような動き方をしているのです。

Kさんの肉体の現れは男性的な形として現れております。しかし大元のエネルギーは意外と繊細で細やかでいろんなものの刺激に反応し、自分を常に少しでもそのまま見られるように、自分が自分としてあるように、いろんな角度から見つめ、バランスをとって進むように働きかけております。したがってそのエネルギーは非常に繊細で細やかで常にバランスを保ち、そして肉体にうまく現れ、自分自身がその中でいかに面白いものを見つけてくるか、新しい発見が見つかるか、という見方で見ております。

肉体の現れと生命は基本的には別でありながらも、その本質が望んでいる役割に応じて現れているということ。肉体は現れそのものを意味しているということ。そういうところから、肉体と自分の関係を理解するようにしてみてください。したがって動物も同じように、役割に応じて皆さん方が形を認識しているに過ぎません。ほかの惑星でほかの宇宙人がその惑星における動物を見たときには、全く違う印象を受けるのが普通になるでしょう。その動物と思われている本質的なエネルギーは探求心が強かったり、感情を勉強していたり、知性が発達していたり、いろんな側面を持っているからです。

したがって外見だけで進化を述べても、あまり意味がないということに気がついてきます。でも役割をという面で見て、今、その惑星がどういうレベルにあるのか、今、どういう役割の生命が多いのか、それを学ぶことはとても意味のあることになります。生命というものを見るときに、そういう見方で見ることもできるというのを理解しておいてください。

それではここで少し、休憩にして次にいきます。ありがとうございました。


A子供が自主的に勉強するようになるには

自分の子供たちが自主的に勉強するようになるにはどういう接し方が良いのか、私たちなりの観点から話をしていきます。子供が自主的に学びを進めるには、そこには何らかの面白みや楽しさ、やって良かったという思いが必要になります。この思いは普通、誉められること、親が喜ぶことによって満足感を得る子供がおります。自分が何かをやったときに、誉めてくれた、認めてくれた、それによって子供は気持ちが良くなり、もう一度やってみたい、もう一回やってみたいという思いが沸き起こってきます。

しかし普通、そういう経験はあまりしていないために、むしろできなかった場合の不安、心配、恐れが先に頭に上がってきます。やるべきことをやらないと怒られる、いわれたことを終えていないと怒られる、先にそういう感覚が湧いてきて、新しいことを自分でやろうという思いがなかなか表に出てくることができなくなってしまうのです。したがって自主的に何かをするためには、怒られることよりは誉められることを先に考えた方がやりやすい人がたくさんおります。

毎日のように怒られている子供は、誉められることよりは怒られてしまう不安が先に起こってしまいます。そして怒られないようにする。それをいつも考えているために、怒られること、これが常に頭にしがみついてきます。誉められてもらうという感覚はまず、その子の頭には出てきません。起こられないようにする、それが精一杯であり、ホンのわずかでも失敗したら怒られる、たたかれる、そういう怖さが先に身についていきます。また子供によっては、普段はほとんど何をやっても叱られたことがなく、あまりうるさく勉強のことも言われない、かなり自由にさせてもらっている。それにもかかわらず、自分からいろいろやろうという気持ちがほとんど湧いてこない。こういう人もおります。

こういう子供はやはり、自分が何かをするという気持ちがあまり表につくられておりません。何かを成し遂げた、自分で考えていろいろやってみた、という喜びが分からないために、自分から進んで何かをするというやり方がまったく身についていない。自分から何かを率先してやる。これは自然に身につくものではありません。去年までは自分から何も行動しなかったのが、ある日、突然として行動するようになった、これは極めて難しく、よほどの大きな変化がない限りは自分が変わることはありません。

普通、起こる変化としては、友達の家に遊びにいったら、友達は全部自分で掃除をしたり、部屋のお手伝いをしていることに気がついて、改めて自分がいかに無責任だったかが分かって、自分もやるようになった。あるいは本で読んだり映画で観たりして、実際には自分と同じような人が一生懸命、自分から考えて勉強していた、それに気がついた、という場合があります。したがって自分から何も行動していない人、自分から行動することの大切さを感じたことがなく、たまたま一緒にいる友達もそういった話題を口にしたり、そういった体験をしていない場合に起こります。

そういうときには、親がいくら言っても子供にはまったく通じない場合があります。親ではなく、同じ年代の友達、自分と同じような人間が実際には一生懸命、自分で掃除をしたり、手伝いをしたり、自分の力でやっていく。そのときのショックの方が心にたくさん、響く場合があります。

しかし場合によっては、そういう機会が得られながらも、やはり自分では何も行動せず、自分から何かをしてあげようとも思わず、何かしてもらうまではまったく動かないという人もおります。こういう人はもうそういう流れが初めからつくられていると思った方が良い場合もあります。その人自身の人生の流れがそうなっており、それを無理に変えようとか、それを改めるという発想そのものがその人にはまったく入り込むことのできない場合もあるのです。これは魂がわざわざそれを望んでいる場合に起こります。いろんな経験の一つとして、何もしない人間をそこにつくり出し、周りの人間がそれによってどういうことを感じ、感情を動かし、行動をとっていくか、それを学ぶためにつくられております。

いつの時代でも、一生懸命、動く人と、何も動かない人間が存在します。それはその人間が良いか悪いかではなく、単なる役割ともいえます。確かにどの人間もすべて自主的に行動し、自分で判断し、自分で責任をとるのが望ましい状況にあります。でもそれを本当に自分の力で身に着けるためには、その喜びを自分で感じ、率先してその喜びを他人に分け与えていく力が必要になります。そういう力がまったく身についていない人は、いつの時代に生まれてきても、実際には自分から動くことはほとんどできません。

そのためにその魂は初めは何もできない人間を造り出してでも、そこで学びを重ね、そこでホンの少しでも身に着けてきたエネルギーをモトにしてまた次の時代に生まれ、少しでも何か役に立てるような環境を造り出していきます。それを繰り返すことによって、いつかの時点で自分で行動し、ほかの人のために動けるような人間を造り出していくのです。したがって、生まれてきた今の時代だけですべてを完璧にさせようと思わずに、いつかの時点でその人間は自分から動き、他人のために動き出すようになる。それを信じるようにしておいてください。

何か質問があれば、伺います。

−なるべく誉めようと思ってむ、つい気持ちが高ぶってしまうんですが。

初めの方の会話にあったように、それはあくまでもあなた自身の学びが現れております。子供をどこまで自分の思っている風に成長させ、自分はどういう役割を演ずることができるか。その通りにうまくいかないと自分がイライラしてくる。自分が悲しくなったり、情けなくなったりする。つい大声を出してでも、自分の思っている方向にやってほしいと頼んでしまう。これは自分自身の学びが入っております。

確かに子供の目からした場合には、自分の成長のために、親がいろいろといってきている、という風に思う人もいるかもしれません。でも実際には自分自身がほかの人に何かをしてもらいたい、こうしてくれたらよい、という思いがあり、その思い通りに進まないと我慢ができず、つい高ぶってしまう。これは自分自身の問題になっております。子供の問題ではなく、自分の問題を子供が教えてくれているに過ぎません。ただそう割り切ってしまっても、ついその場になると、何度も同じことを繰り返してしまう。そういうときには、ある程度、自分で観念し、手放すやり方も自分なりに工夫してみる必要があると思われます。

普段、自分はあまりうるさく接することなく、相手の自由意思を認め、なるべく口を出さないようにしていたとしても、いつかの時点でホンのわずかでもつい強く言ってしまったり、感情が出てしまう場合、実際にはそのわずかな感情が大きな意味を持ち、子供にも大きな影響力を与えていきます。それまで優しくしてきた永い時間はほとんど意味のないものに変わってしまいます。したがって自分自身に対しても、ある程度、長い期間、コントロールできたとしても、ホンの短い時間、コントロールできない自分が出てしまった、それはその短い期間にとても大きな意味があり、まだまだ完全に自分をコントロールできていないという意味があります。

したがってあくまでもそれに関しては、いかに自分が自分のエネルギーをコントロールしていくか。自分は自分のことを考え、子供は何をやろうとも子供の自主性を尊重していく。それをいかに自分が本当に行動に移せるか。それを自分なりに学ぶようにしてみてください。


それではほかに特になければ、これまでにします。ありがとうございました。


(c)1999 CentralSun
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