仮に皆さん方が自分の役割に辟易し、もうやりたくないとか逃げたいと思っても、それは変えることはできない状態になっております。でもあまりのつらさに逃げ出したり、訳の分からない行動をとってしまう人がおります。役割といっても、中にはとてもつらい役割を演じたり、あるいはほかの人から自分の存在価値が無視されるような状況を造り出したりする場合があります。
なぜ、そういう役割をわざわざ引き受け、演じていくのでしょう。これまでの教えでは、それは前生の報いとか、カルマとか、因縁とかいう言葉で説明されてきました。そしてそれを信じている人もたくさんおります。つらいことがある、それも前生の報いだから。我慢して耐えなければ、天国に入れない。それを耐えることに意味のあるのだから、頑張らなければならない。そういう観点で、ただそれを経験することを教えている集まりもあります。
でも少し、よく少し考えていただきたいのですが、私たちや神と呼ばれている存在たちが本当にそれを望んでいるのでしょうか。ただ我慢して独りぼっちになって堪(こら)えている。肉体的にも精神的にもつらい状況になり、我慢できない状況になっても、ただ堪えなくてはいけないのか。逃げ出すことはできないのか。
多くの人はそこから逃げ出そうとして神に縋(すが)ったり、お金で解決しようとしてきました。確かに神に縋っても、神はそれを解決することはできません。いくら一生懸命に、生まれ変わって頑張りますとか、人を愛しますと口に出したとしても、それによって状況が良くなるということはほとんどありません。なぜそこまで経験せねばならないのでしょう。誰もそんなことはしたいとは望んでいないのに、なぜ自分がそれを望んで、神もそのまま見過ごしているのか。
多くの人がいろんな答を見つけ出して、うまく生きていけるやり方を造り上げてきました。何かを唱えれば解放されるとか、何かを信じれば良くなるとか、誰かのところに行けばすべてが解決されるとか、いろんな答を見出してきました。でもそれによって社会がどれだけ良くなったのでしょうか。社会の中での混乱がどれだけ減ってきたのでしょうか。自分だけが助かろうとして、その現象そのものを解決しようとしていない場合は、問題は何も解決されないのです。
自分だけが楽になりたい、自分が解放されたい、でも問題そのものを解決しようとは思わない。つまり、自分は貧しいことがイヤだから、早く裕福になりたい。早く立派なところにいきたい。そう神に願う人はおります。でも貧しさそのものをなくそうとか、つらいことそのものをなくそうと考える人はほとんどおりません。つらいことや貧しいことの現象そのものを残す限り、誰かがその役割を演ずる必要があります。自分はそういう役割を演じたくない。自分はそんなのを演ずる必要性がない。さて、そうでしょうか。
自分は貧しい生活をしたくない。そう思って、一生懸命に働いて、裕福になろうとしている者、貧しさが否定的なものであり、自分を苦しめるものという解釈がなされております。それゆえに貧しいことがつらいことになり、耐えられないこととして造られていきます。自分がそういう価値観を造り上げ、富を獲得しようとする者は、富について徹底的に学ぶ必要があります。富とは何であるのか。単に、金銭を手にすれば、それで富を手にしたことになるのか。
今は金銭をたくさん手にしている人も多くいます。皆さん方もほかの国々の人に比べれば、多くの金銭を手にしています。にもかかわらず、さらに多くの富を得ようとしております。富を目指す者はいつまでたっても、富を追い続けます。もっと、もっとたくさんの富を... そう思って、富を追い続けます。富は本当に良いことなんでしょうか。富は貧しくないこと。貧しいという概念と一緒に造り上げられてきました。富んでいる者がいると同時に、貧しい者が同時に造られていきます。それゆえに自分が富んでいる、自分は富を得ているという思いがあると、ほかの人は自分よりも富んでいない、自分よりも貧しい人がいるという思いができ上がっていきます。
自分が富を手にする。ほかの人はまだその富を手にしていない。こういう心により、富を手にしていないという現実が造られていきます。自分で造った現実は自分で体験せねばなりません。自分で造ったものであり、自分でしかこれを光に変えることはできないのです。貧しい者、そういう思いを出し、そういう現実を造ったからには、それを自分で演じなければならないのです。これは、イヤだと思っても、いつかの時点で必ず演じなくてはいけません。
ただ、そこでもいろんな状況が用意されております。今回のこの人生で、必ずしも体験する必要はありません。また、魂や仲間たちとの協力によって、この地球上ですべてを完成させる必要もありません。また自分の意識が高まってきて、仲間たちと本当に一体感を感じたときには、必ずしも今の自分がすべてを演ずる必要もありません。その時々の意識の成長段階によって、いろんな体験の仕方があります。でもいずれにしても、自分が作り出したシナリオは自分で演じなくてはならないのです。こういうこと自体は今までに何度も聞いてきたことでしょう。にもかかわらず、自分が作り出したものから逃げようとしている。素直に受け取ることができず、他人の所為にしてしまう。
富が良くて、貧しいものは苦しい。こういう認識自体を変えていく必要があるのです。貧しき者も、富める者も単なる状態の一つに過ぎず、それ自体は心の平安とは別にあります。貧しくとも心が平安であるように。富んでいても心が廃れている者は本当の幸せを身に着けてはおりません。心が貧しくても、本当に人生に生きがいを感じ、自分の生きている現実を楽しんでいる者は常に心に平安が訪れております。にもかかわらず、皆が皆、同じようにして貧しさを否定的なものとして考え、早く手に入れようとして毎日毎日、その競争を続けている。
貧しい者は、いつか抜け出して見返したいとか、立派になりたいという気持ちを全面に出して、頑張るかもしれません。またそれが良いことであるかのように教えられてきました。早く楽になればよいねぇとか、早く裕福になると良いねぇとか。実はその言葉の裏には貧しいと大変ですねぇとか、貧しいと苦しいですねぇという思いが入っております。貧しいことと苦しいことはまったく別であり、心はどのような状態にあろうとも平安を造ることができます。でも多くの人はそれを信じようとはしません。お金がないと食べ物がないし、生活できない。これは私たちの観点から見たら、まったく見当外れの言葉のように思えます。
金銭はその人に必要な分だけ流れてきます。その人が本当に平安の日々を暮らし、人生を十分に味わっていれば、それに見合う金銭はその分だけ流れるように仕組まれております。いくら頑張っても、仕事が与えられず、金銭が手に入らない。こういう人にはそれと同じような意味があり、金銭に対しての考え方が根本から違っております。仕事をするということと、金銭が手に入るということも、本来は別問題です。これを一つにして考えてしまっているために、複雑な現象が起こってしまいます。本当に仕事が好きで楽しければ、金銭のことを考えずに、仕事のことを考えていると、金銭はそれなりに与えられていきます。仕事と金銭を別に考えていくと、仕事とは関係なしに金銭が出たり入ったりしていきます。
これを一つに組み合わせてしまうと、金銭の入るべき時期にあっても、仕事がないときに金銭の入ってくることができなかったり、仕事のやる時期になっても金銭のエネルギーによって否定されたりする現象が起こってしまいます。自分が金銭と仕事のエネルギーを一緒にしてしまったために、働けないということと金銭が入ってこないという現実が一つになってしまいました。いろんなものをすべて一つに考えてしまって、お金がない、仕事がない、パートナーがいないと、いろんなものを一つの現実に組み合わせてしまっています。それによって、現実が楽しくない、面白くないという風に進んでいっております。
したがってその事態から抜け出し、うまくやっていくためには、自分が否定的に考えていたものをすべて個別に整理して、一緒には考えないことが必要です。仕事、金銭、人間関係、趣味、それらをすべて個別に考えることが必要です。そして手に入らないことを否定的に考えたり、不幸な状態のように考えることも、止めることが必要です。個々別々に単なる現象の一つとしてとらえ、それを自分で楽しんでいく。ただそれを経験していく。では喜びの基準はどこにあるのでしょう。
富を手にすることを目標とすると、おかしくなってしまいます。富を手にしていることさえも、一つの状況であり、それと心の平安は別であるということ。友だちがたくさんいる。仕事がたくさんある。これも一つの状況です。それぞれ確かに良いエネルギーが出て、やる気も出てくるでしょう。でもそれを良いこととして考えてしまうと、良くないことも同時に現れてしまいます。単なる一つの現実、一つの状況として体験を進めていく。こういう頭の考え方が必要になります。
一つひとつを、良いこと、悪いことと判断せずに、ただその現実を体験していく。それによって否定的な思いが消えていき、否定的な現実が現れることもなくなっていきます。多くの人は、富を獲得しようとして働きづめであったり、一生懸命に身を犠牲にして毎日を過ごしてきました。でも、結局、心の平安は得られておりません。貧しさから脱却しても、心は平安を勝ち取ってはいないのです。貧しいから苦しい、苦しいのはイヤだ、こういう思いが常に付きまとっているために、いくら富を獲得しても心が楽にならないのです。
現実に対する見方をかなり変えていき、今、自分は十分に心が豊かであり、平安であり、喜びに満ちている。ただそれを信じて、毎日を過ごすことです。一つひとつの現実を進めていくことです。もっとこうしたい、将来、こうなる、将来はもっと立派になる、もっと偉くなる、早くそうなりたい、という意識が現実を否定し、現実を良くないものとして造り上げていきます。
今の現実は最高に良い、完璧にうまくいっている、ただそれを心で感じていく。これがその人の心を平安に導くやり方です。皆さん方が困って、どんなに神に頼んだり、天使を求めても、天使は皆さん方の現実を変えることはできません。それは皆さん方の選択だからです。天使や神が知ってもらいたいのは、現実をよくすることではなく、自分の心の持ち方を常に平安に持っていく、常に自分の心を明るいものにしていく。そういう生き方なのです。それによって現実がどんどん明るくなり、恐れや不安も消えていき、スムーズな生き方ができるようになります。
今まで現実を変えよう、変えようとして、一生懸命に努力してきた人。現実をただ体験するという言葉の本当の意味を理解していなかったのです。現実をただ体験するというのは、我慢したり、無理矢理甘んじて受けるという意味ではありません。ただ現実を喜んで進めていく。その現実をただ平安の中で過ごしていく。ここに意味があります。いわゆる否定的な現実は、皆さん方を苦しめるために与えたわけではありません。皆さん方が富を得よう、楽になろう、良くなろうという思いによって、そういう現実が造られただけなのです。苦しい現実は自分が作り出したもの、それを早く理解し、もうそういうことを造り出さない心の持ち方で進めていくようにしていってください。
自分の願いや思いが悪いという意味ではありません。自分が一生懸命、何かのために頑張る。一生懸命、やってみる。これ自体は必ずしも問題ではありません。問題なのはそれを、自分が楽になるためとか、苦しさから逃れるため、誰かの上に立つため、人よりも早く何かをするため、という思いによって造られたときに、それは正しくない現実を造り上げていきます。したがって自分が何を望んで頑張っているのか、何を求めて頑張っているのか、その根本のところがとても大切なのです。
皆さん方も、これから何かを求めたり、何かに向かって進むときに、自分の根本の思いが自分の心の平安をもたらすかどうか、それを考えながら演ずるようにしていってください。その基本的な生き方が分かってくると、自分の現実も一つひとつの局面において、どう考え、どう行動するのかが見えてきます。もうそれが分かってくるころには、自分の役割についていちいちこれが良いとか悪いとか、間違っているかどうかの判断もなくなっていきます。ただ与えられた現実を送るだけで十分だということに気がついてくるのです。
自分がどういう役割を演じているのか。それをいちいち確認する必要性もなくなっていくでしょう。ただ現実をよく、楽しく過ごしていく。それで十分に役割を演じていくからです。皆さん方もいちいち細かいレベルで確認を取る必要はありません。それよりもむしろ、毎日をいかに過ごしていくか、そこにもっともっと意識を向けるようにしてみてください。
一人ひとりの流れについて後で説明をいたします。ここで少し、休憩をとります。ありがとうございました。
ではその場その場、ただ感情に流されて行動しているのか。実はこれも必ずしもそうではない場合があります。多くの皆さん方の場合は自分の意思がまだ弱いために、自分の現実を自分で造って、自分で進んでいるという人がそんなに多くないのです。つまりほとんどの人は、ある意味では決まった流れの上を進んでいっております。ただ、その流れは一つではなく、無数に存在しております。
その流れを変える選択のところで感情が入ってきたり、頭で考えて判断をしたりして選択肢を変えていきます。したがって皆さん方のほとんどの場合は、決められた無数の流れがある中で、ポイント、ポイントで感情や思考で流れを変えていっている、という現実の造り方になっております。これはまだある意味では未熟な現実の造り方といえます。自分の現実を造っている流れには入っておりません。自分の現実を造るというのは、流れそのものを自分で造ることをいいます。したがって一瞬一瞬の選択ではなく、流れそのものを自分の思考で造り上げていくのです。
これができるためには、まず流れの切り替えごとに、自分の思考で切り替えていく。流れを変えるという選択が必要となります。そういう練習を何度も何度も繰り返すことにより、流れを自分の思考で切り替えていく。それがだいぶん身についてくると、流れそのものを思考で造り上げることができます。
多くの人がそういう学び方をしていないために、感情のままで流されたり、特に選択をしなくても自動的に現実が進んでいくようなやり方をとっております。
Mさんの今の現実の造り方としては、やはりまだ感情や思いによって現実の選択が行われております。したがって自分の現実を自分で造るという段階にはまだなっておりません。それでもまだ学びを重ねていくうちに、選択が自分の現実に良い方向へ進むようにとかなり変わってきております。自分が望んでいる大まかな望みや願望があり、それに沿って選択肢が造られるように変わってきております。したがって大まかなレベルでいうと、選択肢が少しずつ自分の望みに合うように用意されてきて、そしてその場その場の選択に関しては自分の思いや感情で選択していく。そういう現実の造り方になっております。これはこれでこのまま練習を続けていき、さらに自分の思考で自分の現実を選べるようになってくると、流れそのものも自分の手で造れるように変わっていくでしょう。
先ほど、物がなくなるという話がありました。これは必ずしも一つの大きな意味で学びの現象が起こっているわけではなく、一つひとつ別の意味があります。個別に話すことはできませんが、ある物の場合にはそれが一時的に不要となる状況が求められていたために、それを一時的に現実から引き離し、そのエネルギーのないまま別の現実を体験し、そしてまた問題がないときにそのエネルギーを現実に戻す、という意味があったために、一時的に現実から外れてしまったことがありました。ある物の場合には、あなた自身の思いや考え方をある程度整理させ、それがないと自分はどうなるのか、それがあることによって現実にどれだけ恩恵が与えられているのか、それを考えさせたり、認識させるために一時的に現象を造ったものもあります。
このように一つひとつの意味は個別であり、必ずしも一つの大きな共通のものから現象化されたわけではありません。ただ、こういったことの繰り返しにより、自分自身のものに対する考え方、現実に対する考え方が少しずつ変わってきます。そしてなくなるとか、出てくるときのエネルギー、思いが少しずつ変化していきます。実はこういう経験を何度か繰り返すことにより、実際に物がなくなったときに、それを引き寄せる力、自分の手元に持ってくる力、そして最終的には、今、ない物を自分の現実に引き寄せてくる、自分の現実にはないものを現実に持ってくる、という現象が身につくようになっていきます。
したがって自分が自分の現実をよくするために、今、何を望んでいて、何を引き寄せるのか、そういう大まかなテーマの中で現実が進み、いろんな現象が起こっているということに意識をもっていってください。
Tさんの現実に関しては、やはり現実のいろんな流れがある中での一つひとつの選択の際に、いろんな価値判断や思いが入ってきて、それによって選択が進んでいっております。ただMさんとは違うやり方として、あなた自身の自分の思い込みや考え方、概念がたくさんあり、それに引きずられるようにして選択が行われていきます。つまりその時々の判断というよりはこれまで身に着けてきた思い、これまでの体験から選択がなされることが多いといえます。これは必ずしも悪いこととか良いことという価値とは別判断になります。今までのやり方が自分にピッタリし、現実を造るのに良いやり方になっていれば、こういう現実の造り方はとても良い働きをしていきます。しかし今までの選択が自分にとって好ましくないと思っていたり、うまくいかないと思っていたときには、そのままそのやり方でその現実が進むことになります。
しかし今、あなたにとってこのエネルギーが大幅に変わりつつあります。あなた自身の思いが少しずつ現実に影響を与え出してきており、ただ単に流れで進むというのではなく、あなたの思いが現実の選択にかなり強い影響を与えようとしております。それによって今までとは違う選択、今までとは違うパターンといったものが現れてくるかもしれません。今までだったら、こういうときにはこういう現実になっていた。こういうことをするとこういう状況になっていた。そういう流れがあったのが、だんだんその流れに合わなくなってくるでしょう。したがってここの判断がかなり必要になってきて、その場その場で展開を考えていって、選択をすることになります。
これに慣れてくると、それ以降のやり方もかなりスムーズになってきて、現実の流れを自分の望み通りに持っていく方向へと進めることができます。ただ、その場合にも今までのやり方や考え方、流れといったものを完全に無視し、自分の意思によって選択をしていく、自分の考えによって選択をしていく、その強さが本当に必要になっていきます。でもそれが身についてくると、今までのやり方に束縛されず、自分のやり方でスムーズに進めることができます。
現実を選択するときに、いろんなことを考えてしまって、どうして良いのか分からなくなってしまう。こういう経験はこれからもしばしば起こるかもしれません。その時にこそ、今までとは違うやり方、今までとは別のやり方を工夫してみて、その時に現実がどう変わってくるのか。今までとは違うやり方をすると、現実にどう影響を与えていくのか。それを少し学ぶようにしてみてください。今までとは違うやり方を少し自分なりに工夫して、新しい現実の造り方を試してみてください。
Kさんの現実の造り方はかなりあなた自身の思いが優先してきます。あなたの現実の流れがあなた自身の思いで進んでいっております。これはある意味では、いろんなことを考え、思い、そしてそれに合うように自分を進めていきたいという思いからやってきております。したがって一つひとつの現実も、自分の思いが現れたものであり、その中で自分は何を学び、成長していくか。純粋にそこに意味があると思っておいてください。
でも自分の思った通りに現実がやってこない。そう思うかもしれません。そういうときにこそ、思いをいろいろと巡らす必要があります。自分は何を思って、何を望んでいたのか。それに対して今、直面している現実はどうなのか。その奥深いエネルギーの流れを読み取るようにすると、相反するものと思ったものが同じエネルギーであり、同じ思いのエネルギーから現れたものである。それを見つけることができます。そうすることによって、一つひとつの思いがいかに現実を造り出し、自分のどういう思いがどういう現象となって現れてきたのか。それを見抜くことができるようになっていきます。自分の思いと現実の表れで、この因果関係を自分なりに考えながら、現実の流れを見つけていってください。
皆さん方の多くの人がまだまだ感情やその場の雰囲気で現実を選択しております。そういう人を見ても、決して愚かだとか、未熟だと思う必要はありません。それが普通の状態です。ただ、自分はそこにはとどまってはおらず、自分はもっと楽な生き方をする。自分が満ち足りた現実を過ごしていく。ただそういう風にして、今を常に楽しく、満足するように進めていってください。皆さん方の現実が少しでも良くなることを信じて、今日はここまでにいたします。ありがとうございました。