Tさんの場合は現実の中で自分の心を見るということがまだうまくできず、常に自分の心と現実を切り離してしまい、現実が自分の心の現れであるということに中々意識が向いていません。しかし本当に自分の心が現実を造り出しているということ、これを何とか理解していただくために、自分の心を良く冒険していただき、それと現実との関連性を自分なりの認識の仕方で理解していただこうと思って、いろんな体験をしていただきました。
しかし、結果的にはあまりうまくは働かなかった感じもいたします。一つの原因は、まず考え方の根本が常に何か別の思いで動かされており、素直な自分が常に覆いかぶされております。物事を素直に観る、純粋に波動を感じるという練習が不十分な状況にあり、自分の思いとは別の思いが関与し続けております。
自分の純粋な思いをそのまま表に出していく。これを練習するためには、現実を素直に見つめ、自分の思いを素直に表現し、他人の言葉を素直に受け取る。常にこの繰り返しが必要とされるでしょう。自分自身の考え方、それを信じて自分のやり方で進めるというのはそれはそれで意味がありますが、自分の思い込みや勘違い、そういったことを前提にして進んでいくと、どんどん違う方向に進んでいきます。
思い込みや勘違い、こういったものをなるべくクリアーにし、ほかの人の心を素直に見つめていく。こういう練習が必要となります。自分だけ何とかできていればよい。自分がうまくやっている。こういう感覚を少しでも薄くし、ほかの人が自分の心を現れであるというこの本質的なことを早く心から理解できるのを望んでおります。
自分が今、何をして良いのか、分からない。こういう言葉を出す人間が実にたくさん存在しています。何をして良いのか分からない。これは、何かをすれば良いことである。何か正しいことがどこかにある。こういう意識が前提にあり、今、自分は正しくないことをしている。今、自分は良くないことをしている。こういう思いが出てきて、本来のやるべきことを早く知りたい。そして自分は正しいことをやっている、良いことをやっているという安心感や保証を手に入れ、楽になりたい。こういう思いから、感じられてくるものです。つまり、自分が正しい人間であり、良い人間であるという証を得るために、早く正しい生き方を知らせてほしい。こういう堂々廻りが繰り返されていきます。
何をして良いのか、分からない。そういう思いを持つこと自体が無意味であり、何の価値もなく、ましてや答などというものも存在しません。私たちが言えるのは、ただ今、生きている。それで十分なのです。それ以外に何の答もありません。ただ生きる。それを否定することはできないのです。
生きるのに、うまく生きるとか、より良く生きるとか、そういった価値感は何もありません。生きていて自分が満足すれば、それは良い生き方です。生きていて不満を持っていたり、何をしてよいのか分からないというエネルギーを出しているだけでは、それは輝きを持った生き方とはいえないでしょう。生きるということの本質が何であるのか。行動するというその本質が何であるのか。その本質、原点を自分なりに良く分析し、そしてただ生きているということの喜びを早く感ずるように。
往々にして、何をして良いのか分からないという言葉を口に出す人は、他人と比較しており、何かをすることによって優れており、マトモであるという証を得ようとしています。そういう心を自分なりに分析し、ただそのままで良い、ただ生きているということだけの喜びを早く自分のものにすることを望んでおります。
自分の心はいろんな状況から現実に影響を与えていきます。何らかの思いが湧いてきて、常に不安を感ずる。これも心の中にある恐れや心配、自分の確立した心が完成されていない状況などから生み出されてきます。自分の心の中に自分の信念が確立されていれば、何一つ不安や恐れは沸き起こってきません。
自分の生き方の確立した信念、そのままで良い、今をしっかり生きているだけで良い、という本質が理解できていない者ほど、不安や恐れが沸き起こってきて、他人に頼り、すがりつき、情報を得ようとします。自分を確立させる、そのままで自分が自立して存在している。こういう心を早く養ってください。私たちは今日はここまでにします。ありがとうございました。