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1996/12/18■木曜瞑想会から

相手の自由意志に介入しないこと

質問
−人間関係をスムーズにもっていくには
−どこまでが親切で、どこからがお節介なのか

@上下関係でみていると人間関係は良くならない(マリア)

今日は。私はマリアとして今、やってきました。まず人との関係をスムーズに持っていくために、何が必要か。皆さん方は一人ひとり、自分というものを意識し、自分の世界を造って活動をしております。自分の世界を造るということは、自分の価値観を造り、自分なりの信念を築き、そして自分の世界を少しでも広く、大きく、温かいものにしていく。これが全員の共通の課題となっております。自分の価値観をどんどんと高めていく。

ところが多くの人は、自分を高めるというのをほかの人と比較し、ほかの人よりも自分が高まることによって自分が高まっているということを確認しようとします。ほかの人よりも自分が美しいと、自分が美しいという世界観を持ちます。ほかの人よりも自分の方が大きいと、自分は大きいという世界観を持つ。こういう、人との比較によって自分というものを理解し、自分の成長を確認しようとしております。

したがって、普通、人間関係を続ける場合でも、常に他人と比較する気持ちがそこにあり、自分の世界観を確認するつもりで他人と接し、自分の方が少しでも他人よりマシであるという自信を持とうとして接触を持とうとします。お互いにこういう気持ちを持って接触しているために、常に他人と自分の違いばかりを目にし、そして自分の方が常に優位であるというところをたくさん意識しようと頑張ります。

こういう気持ちで人間関係を続けても、そこに素晴らしい人間関係が起こるはずがないのは明らかです。そもそも比較したり、自分の方が相手よりも優れているという確認を得ようとして人間関係を続けている限り、スムーズな人間関係はつくられません。常に争いの原因を造り出しているだけです。したがって、まず人間関係をスムーズに持っていくためには、その人と比較する気持ち、自分の方がその人よりもマシだという気持ち、これらを心からすべて追い出す必要があります。

家庭の場合、親は子供に対し、常に上であるという意識を持っております。自分の言うことを聞かない、言うことを聞かせようとする、自分と違うことを言ってきたら、生意気だとか、反抗しているという気持ちを抱く。当然のことですが、こういう気持ちを持つ限り、スムーズな人間関係が持続されないのは明らかです。これも常に比較する気持ちから起こっております。子供は親の下にあるもの、親は常に子供よりも上にいるもの、こういう概念によって行なわれております。

親も子もすべて人間として平等であり、ましてや表現したり意見を言う場合には上下の差は一切なく、対等な人間であるということ。何かの感想を述べたり、自分の思っていることを表現する場合に、上下は一切、関係ありません。思っていることを素直に表現する。それが素直に表現できない環境を造り上げてしまった場合、もうすでにスムーズな人間関係は行なわれません。

親の前だからこう言っておこう。お母さんに怒られるから、こういう風にしておこう。こういう気持ちから発せられる言葉はもうすでにおかしくなっております。もう、素直な気持ちでも、真実でもありません。まずは環境自体、そういう歪んだ環境をなくし、平等で対等な関係で話ができるという状況を造り上げるということが必要となります。

皆さん方がいろんな人間と接するごとに、それぞれの人間ごとに必ず何らかの意識を造り上げます。どちらかが優れている。どちらかが偉い。政治家だから、偉い。病院の先生だから、偉い。大学の教授だから、頭がよい。そういったような概念を造ります。そしてその時点で、何らかの上下関係、そして比較する気持ちが起こってきます。そして比較するところから人間関係がスタートし、常に自分はより下か、より上か、そういった観点で言葉が発せられていきます。

でも、それは正しい人間関係にはなりません。表現が常に歪んでしまいます。私よりも偉いから、こういうことは言わないようにしておこう。こういう表現をしてはいけないので、こう言っておこう。常にそういうエネルギーが入ってきて、正しい表現がなされなくなってきます。つまり、相手に放っているエネルギーも正しいエネルギーではなく、こう言っておこうとか、このようにしておこうという、ごまかしのエネルギーしか相手に伝わりません。それは正しい人間を造らない方向へと進んでしまいます。

正しい人間関係を造りたければ、まず自分が嘘を言わないということ。正しく表現するということ。そして目の前にいる人の価値を素直に認めてあげることであり、上下関係は一切ないということ。対等の立場で常に正直に、素直に表現できる環境。これが人間関係をスムーズに持っていかせる環境といえます。したがって、良き人間関係を造りたいのであれば、そういう場をしっかりと設定するということ。つまり、自分の意識を常にそういう風に保っておくということ。

すべての人間が対等であり、上下の関係なく、でも相手の価値は認め、自分は素直にすべてを表現する。偉いからこうだとか、私より上だからこうだとか、そういった感覚はすべてないものにし、対等の立場で表現する。これが原則といえます。私たちなりの観点から、人間関係を、特に日本人の場合に関して言うとこのようになりますが、何か質問があるでしょうか。よろしいですか。それでは次の質問にいきます。


どこまで話せば適当なアドバイスで、どこからがお節介なのか。日本人からみたらこれも大切なテーマであり、難しい話題かもしれません。でも、私たちからみたら、明らかにその違いが分かるのです。なぜならば、エネルギーが全然違うからです。相手のアドバイスというのはあくまでも相手が本当にそれによって成長し、少しでも光に目を向け、進んでいける場合。それも相手が自分でそれに気づき、自分で歩いていけることができる。それを教えてあげるのがアドバイスです。

日本人の場合はアドバイスと答えをそのまま教えてしまうということの区別がついておりません。私たちはあくまでもアドバイス、ヒントとか方向性を言うことはできますが、答そのものを明確に言うことはありません。それは自分で考えて、見い出してもらうためのことだからです。答を要求してしまい、それをただ求めてしまう日本人が多いのですが、それは私たちはあまり認めてはおりません。

あくまでもあなた方はヒントを求め、私たちはヒントを与える。本人はそして自分で考えて、方向性を見い出し、そこへ進んでいく。これが一般のやり方です。まず、余計なお節介というのは、今のように答そのものを無理矢理そのまま教えてしまい、しかもそれを教え込み、相手に執拗に強要してしまう場合。これは明らかに余計なおせっかいです。答は本人が見つけ出すものという前提を覆しております。答はあくまでも本人が気づくもの。なぜならば、それが成長だからです。

本人が気づくことを成長といっているのです。本人が気づくチャンスを奪ってしまい、答えてしまうのを初めから前提にし、それを押しつけてしまっている場合。これはもう目茶苦茶といえます。本人が成長するチャンスを奪ってしまうだけでなく、相手の自由意志を奪っております。したがって、明らかにこうしなさい、ああしなさい、という表現はすべて余計なお節介といえます。

あくまでも、アドバイス。私はこうしたら良かった。私の場合はこのようにしたら、うまくいった。でも、あなたはあなたのいろんな条件があるから、自分で考えてください。私の場合はこれでうまくいきました。これが精一杯です。あくまでも、アドバイスは答ではないということ。答を教えたり、ましてやそれを強要してしまう場合、それはお節介です。そういったことを基準に考えてみてはどうでしょうか。

もし、質問があれば、お受けします。よろしいですか。それでは、私はここまでにしますが、さらにクァンインからのメッセージもありますので、続いて聞いてください。


A最終的な判断は相手に任せること(クァンイン)

今日は。今のマリアの説明は、とても分かりやすかったものと思われます。私たちからみたら当たり前のことでも、まだまだ人間から見たらまったく分からないといったことがたくさんあります。アドバイスとお節介もそうですが、ほかにもたくさんあります。どこまで癒してあげて、どこからそのままにしておいたらよいのか。どこまでリーディングの手助けをしてあげ、どこからは黙っておいたらよいのか。いろんなところで出てきます。

いずれも私たちの世界から見たら明らかなのですが、まだ人間の判断では難しいように思えます。それで一つ、共通の状況があります。どのような状況においても、相手の選択に完全にこちら側が介入してしまった場合には、それはもうすべて正しいとはいえません。あくまでも、個人の選択の自由が与えられており、それに介入することは許されておりません。

したがって、ヒーリングの場合やリーディングの場合でも、まず、本人が希望していないものをこちらが勝手に与えてしまうというのは認められておりません。本人がどうしてもこれを癒して欲しい、ここのところを何とか治して欲しいという希望があった場合にヒーリングをすることは可能です。でも、本人が何も話さずに、ただ黙って、何かしてくれ、と言われたときには、基本的にはヒーリングは許されておりません。

リーディングも同じように、ただ黙って情報をくれと言われた場合に、必ずしも情報が出ていくことはありません。そうではなく、自分のこれをどうしても教えて欲しい。これに関してどうしてもアドバイスが欲しい。そういう風に言われたときには、それに関して的確に手助けをしてあげることは可能です。

でも、それによって何か行動しようとしようとしている場合、AかBかどっちか教えて欲しい、そういうときにAかBかどっちかを教えるというのは必ずしも適切なやり方ではありません。私だったら、Aにする。以前、同じようなときにBにしたらうまくいった。こういう言い方で、最終的には相手が確実に自分で判断できる道を残したやり方をとること、必ず、これが要求されます。

最終的には自分で判断できるというのを必ず残しておいてください。自分ですべて決めてしまい、相手がそれしか選択肢がなくなってしまう。これは完全に相手の選択の自由を奪っております。もう、あなたはこれをするしかない。これしかもう道はない。こういうやり方は最悪のやり方です。相手は選択の自由がもう、なくなっております。

日本人はむしろ、こういう風に相手を説得させ、もうそれしか道がないかのように論理を進める人がいます。でも、これは宇宙から見たらとても大変な罪を犯しております。あくまでも、自分はこれでうまくいった。でも、あなたはほかの可能性が頭の中にある。あなたは自分で好きな方を選んでください。あくまでも、これを徹底させるように、日ごろ、練習をしておいてください。

どのような人でも、子供であっても、幼い子であっても、老人であっても、常に選択肢を相手に残しておくように。これだけは常に守っておいてください。それではここまでにいたします。ありがとうございました。

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