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1996/11/21■木曜瞑想会から

子供は親のエゴを満たすためにいるのではない

質問
−子供が遊んでいて、我が子が家来にされそうになったりするのを見ると、不快の念が起こってしまう。
−男性性のエネルギーと女性性のエネルギーについて
−黒い服を着ることの是非

@子供の育て方と親のエゴ

今晩は。まずは皆さん方のご活躍、本当にありがとうございました。これは明日からのワークに限らず、地球にとってもかなり大きな影響をもたらす活躍でしたので、多くの仲間たちが本当に感謝をしております。


私のほうから、まず、先にお話をさせていただきます。子供の育て方についてですが、皆さん方、特に母親の場合はまず、自分の子供を少しでも良い子供に育てたい、少しでも、社会から見て素晴らしい人間であり、地位があり、誰から見ても好かれる人間に育てたい、という気持ちを持って育てようといたします。ほとんどの母親が、自分なりの観念の中で「良い人間」という概念をつくり、そしてそれを子供に与えていきます。

しかし一般に、子供は母親の言う通りには行動しません。母親はあくまでも母親であり、子供の操縦をする存在ではないからです。子供は母親の言いなりになるために生まれてきたわけでもありません。子供は子供のやることがあり、自由意志があり、そして経験すべき目的があります。母親がそこまで理解をして行動しているのであれば、何も問題はありません。しかし子供が、何を今、経験すべき状況にあり、今、魂が何を願っているか、そこまで考えていないで子供にいろいろと押しつけようとしていることがある場合には、それは単なる母親のエゴから行われているということを理解する必要があります。

こうやって母親のエゴによって子供をいろいろとコントロールしてしまうという状況が起こった時には、子供自身の経験すべきエネルギーが正常に行えず、かなりの計画が変更になることすらあります。せっかくそこの両親のところで学ぶべき経験というものを決めてきたにもかかわらず、母親がいろいろと関与し過ぎて経験すべきことが経験できなくなってしまった場合、それを経験するために、大抵、その子供は少し大きくなるとわざと母親から離れて自分一人で生活をしたり、友達同士でいろいろと行動をとるようになってきます。したがって、あまり関与し過ぎると、必ずしもそれは子供にとって良くはないということをまず理解しておくことが必要です。

さて、先程の質問の場合は、子供同士でいろんなやりとりが行われ、自分の子供が不当な扱いをされると、なんとなく不快感を感じてしまう、という状況でした。まず子供同士がいろいろと演じている場合、それはすべて子供の世界の価値観で動いております。大人の価値観と子供の価値観ではかなりの差があるために、それを同じレベルで認識しようとしても意味はほとんどありません。家来という言葉一つをとっても、子供同士で使っている家来という言葉と大人が解釈する家来では全くの認識の差があります。それを自分の概念にしたがって解釈し、それは良くないとか、そういう言葉を使ってはいけないという指図をしたところで、あまり意味はありません。

一番意味があるのは、その時の放たれている言い方のエネルギーとか、何を本当にねらっていたのか、何をさせようとしていたのか、というその本来のエネルギーをなるべく感じようとしておくことです。その時に、それによって仲良くその場を楽しく過ごそうとしているのか、それとも明らかに相手を傷つけ自分の優越感を満たそうとしているのか、その時の状況によってかなり行動が変ってきます。

もし自分がそれを見ていて何かしらの不快感を感じた時には、自分自身がそういう状況に対して、何か特別の反応をする人間であるということをまず理解しておいてください。自分がそういうことに対して、何か心理的な反応を強く出してしまう。上下関係とか他人を操作することに対し、自分自身が過剰に反応する。まずは自分がそういう心の持ち主であるということを理解し、自分なりにそれを少しずつ癒していく必要があります。

自分自身の中に、プライドあるいは上下関係によって傷つけられた部分が残っているという証でもあります。それを自分なりに癒し、上下関係、人を支配する、コントロールする、言うなりにさせるというのを自分なりに分析して見てください。

もう言うまでもなく分かったと思いますが、あなたの場合は子供を支配しようとするエネルギーがあり、子供同士でそれを演じている時に自分で反応しております。そういうことによって自分の心を見せられているということを理解しておいてください。自分自身の心の中にある子供をコントロールしようとするエネルギー、これをなくさない限りは、あなたの目の前で子供同士がコントロールするということがずっと現れ続けます。自分なりにそういう見方で子供と接してみてください。

さて、先程の右手と左手のエネルギー。そして男性、女性という肉体的な違い。エネルギー的な影響。これについて少しお話をしましょう。

人間はいろんなエネルギーから成り立っております。そして肉体は、そのいろんなエネルギーを格納すると同時に、それらを使いこなし、他の人々や生命に影響を与えることができるように造られております。

人間の右手や左手からは、とても強いエネルギーを出すことができます。そしてそれは、それぞれが持っているエネルギーのうち、特に癒しに関係するものが手から出ることがたくさんあります。そして、愛はハートチャクラから出ていきます。したがって、手から出るエネルギーを癒しに使うのはとても良いことであり、それは人間としての肉体的な役割を正しく使っていることになるでしょう。

さて、右手と左手でまた意味が若干違ってきます。右手は明らかに光の方向に進みながら、自分自身を光の方向に持っていき、そして障害物があれば、その手でそれを分析し、自分が進みやすい方向に変えていく。目の前に何かがあれば、そこを自分の右手でいろいろとそれを処理する。光を入れたり、癒しが足りなければ癒しのエネルギーを送ったりして前に進んで行く。これが右手の主なシンボルです。

そして左手というのは、右手で造られた後、結果あるいは状況に対して調和を取りながら、少しでも良い方向にいくようにバランスを取り、配置換えをしていく。調整をし直していく。そして全体的にうまくいくように再調整していく。こういうのが左手の主な働きとなります。前に進んでいざこざが起こった場合に、左手のエネルギーでそれの調整を取っていきます。

今まであなた方は、男性性のエネルギー、女性性のエネルギーという言葉を使って表してきました。確かに今言ったように、右手のエネルギーはある意味では男性的と言ってもいいかも知れません。左手を女性性のエネルギーと言ってもいいかも知れません。でも一般には、正しい理解をされるというよりは誤解されて伝わるほうが多いために、できることならば、私たちはあまり男性性のエネルギー、女性性のエネルギーという表現はしない方が良いと思っております。

ではどういう風に表現したらいいのか。これは難しいものがありますが、あくまでも光に向かい、確実に進んで行き、自分を進歩させるエネルギーと、常にその場その場でバランスと調和をとりながら、全体をまとめていくエネルギー、これらが存在しており、これらをうまく使いこなすことによって、確実にあなた方が成長していけるように造られている、というエネルギーがあるというのは理解しておいてください。

さて、これが肉体的な男性女性との兼ね合いでいった場合に、必ずしも女性だからといって女性性のエネルギーが多いとも限りません。男性だからといって男性性のエネルギーが多いとも限りません。あくまでも肉体的な男性と女性は、それぞれのいろんな経験すべき目的があり、それに合わせて遺伝子が造られ、結果として男性と女性に生まれてきたというだけのことです。

でも男性は男性で、女性は女性で、やはりそれぞれ自分たちだけのエネルギーを持ち、使いこなすことができます。それは男性は一般には行動を主体にし、行動によってエネルギーを伝えていく、そして女性はむしろ、感情とか愛情とか心理的なものによって、相手を慈しんだり慰めたりしながら愛を広げていく、こういう愛の表現の形態の違いがあります。ほかにもいろんなところで男性と女性で違うところが現れています。

そういったことを一つひとつ話すと時間がかかりますが、そういう風にして男性と女性の表現の違いは多い、ということは理解しておいてください。したがって一概に、人間だからすべてこうだとか、このようにすると良い、ということは必ずしも適当でない場合があり、やはり、男性として表現できるやり方、女性として表現できるやり方、それぞれに特質があるということを理解しておいてください。

さて、服装の色のことですが、確かに先程話されたように、ここに来る人は黒をまとって来る人が多いように思われます。私たち自身は、それはすべてその人の判断であり、選択の結果として許しており、そこに介入する必要は毛頭思っておりません。ただ、魂自身は先程のように、少しでも多くの人に愛と光を差し上げようという気持ちを持っております。

黒だから悪いというわけではありませんが、黒を他の人が見た時に、光と愛を受け取るという印象は、あまり抱かないでしょう。黒の服を着ている人が仮にたくさんいた場合に、おそらくそこで愛をいっぱいもらうというイメージには中々結びつきにくいものがあるように思われます。これは実際のエネルギーではなく、人間自身の持っている概念です。それぞれがそのように造っております。

黒のものを見ると、あまり喜びや嬉しい波動が伝わってこない。一つの例が、お葬式のいろんな服装とか、そういった場合のイメージを持ったりする人がおります。したがって白い服と黒い服で同じ数の人間がいた場合に、どちらが愛と光を感じるかというと、やはり白い服の人の方が多く感じるでしょう。これは人間自身の概念が作り上げたエネルギーの流れでもあります。

そういうふうに皆が概念を造っている場合には、少しでも多くの人に光と愛を分け与えようとする時には、やはり自然と白を選んでしまうことが多いものです。

でも本人自身が、その色とは関係なしに、確実に愛と光が自分から出ているというのを信じている場合には、それはその人の宇宙として確立され、色に関係なしにその人の愛と光は出て行きます。ただ相手がそれを受け取るかどうかはあくまでも相手の責任であるということを理解しておいてください。仮にあなたがいっぱいの愛と光を肉体レベルで出していても、受け取る人が全く感じなければ、それは結果的に相手には伝わらなかったことになります。

それでは質問の答えはまずここまでにいたしますが、分からないところがあれば、今、聞いてみてください。よろしいですか。それでは別の存在と交代いたします。ありがとうございました。


あなた方に、今日はお土産を渡して、帰っていただこうと思います。あなた方が確実に地球とつながり、宇宙とつながり、魂の核とつながり、神とつながるために。

私たちからのお土産でした。ありがとうございました。

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